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 ワイシャツの袖に腕を通すと、少しだけしゃきっとする。この感覚は高校生の時から変わらず五条の生活の一部となり、さらりとした冷たさが肌に触れる心地よさは朝の気だるい身体を柔らかく刺激していた。手首のボタンを止めながらキッチンから漂ってくる香りに意識を持っていく。鼻孔をくすぐる香ばしさは肺に届き、空っぽの胃に染み渡るように広がっていった。すとん、と息をつく。それでも未だに纏わりつく眠気をどうにか追いやり、注いだコーヒーにとろみがつく程度の砂糖を加えると口を付けた。
 昨日と変わらぬ今日。こうして続いていくことを望んだのは他でもない自分なのに、どこか落胆を覚えてしまうのはもはや癖だった。ひとつため息をついたその息は、先ほどよりも数倍も濃く、重たい。だからコーヒーが香りを舌に残してくれたのはありがたかった。

(……動けるなら、最初からそうしてる)

 そして紡いだ言い訳は、もう何百回目か分からない。今と似たような制服を着込んで、大して物も入っていない鞄を掴んでいた頃から繰り返し続けているから、そもそも数える気にもなれなかった。堂々巡り、それも、ここまでくると救いようがないほどの。胸のうちで呟いた自嘲が外に出る前にコーヒーを呷り、再びため息が漏れるその直前。テーブルの上に置き去りにしていた携帯電話が空気を震わせた。
 こんな時間に、という苛立ちは、ディスプレイに表示された名前を前に一瞬にして吹き飛んだ。

「……なんだよ、こんな朝っぱらから」

 けれど口調が常と変わらずにいられたのは、それだけの時間をともに過ごしていた慣れがあったからだ。そのことに感謝しつつ、返答がない携帯を握り締める。布切れの音と何か空調らしき風切り音が聞こえるのに一向にの声がしない。それに少し焦り、、と呼びかけると今にも消え入りそうな『すみません……』が五条の耳に届いた。
 一瞬動きが止まるほど掠れた声は今まで聞いたことがなかった。それがの声とは判断できないほどで、思わず携帯を強く押しつけた五条はもう一度名前を呼んだ。返事として痛々しい咳と喉を鳴らす唸り声が耳に届き、無意識に右目を眇める。

『風邪、引いたみたいで……』
「みたいだね。熱は?何度?」
『……まだ、計ってないです』

 会話の途中にも、何度も咳が入り苦しそうに言葉を繋げるに五条はため息をついていた。それは、昨日一緒に仕事をしていたくせに全く気づけなかった自分にひとつ。そして、あの頃から強がりばかりで弱さを絶対に見せようとしないの相変わらずさにひとつだった。
 そのため息をどう受け止めたのか、が『なので今日の任務、あの、二級のなんですけど……本当にすみません』と謝ってきて、五条はやるせなくなった。こんな時まで他人や仕事のことを気にすると、そうさせてしまっている自分。どちらに対してかはもはやわかりたくなくなって、いつの間にか締め付けられる痛みを覚えていた喉で「分かった」と絞り出し、より先に通話を切った。

 そう。動けるのならば最初からそうしている。
 ぎゅっと握り締めた携帯にまた言い訳をしている自分がいて、目をきつく閉じた。けれども、いつもならここで終わるはずの言葉は今日は続きを見せた。その一言が思いの外胸に突き刺さり、通話時間の表示も既に切り替わった画面を見ながら、それに対する言い訳を並べようとする思考を五条は切り離した。