extra track.1



「あっ、さんおかえり」

 仕事を終えて帰宅して、自分の部屋の玄関を開けたら廊下に立っていた一郎くんとばっちり目が合った。やさしい声色でわたしを迎え入れてくれるのが本当に嬉しくて、おかえりにただいまと返すことができるこんな些細なやりとりにだって何物にも代えがたい幸福を感じることができる。こういうの、大人になってもときめくんだなあ、なんて他人事のように考えながら仕事用のヒールを脱いで土間の端に揃える。
 一郎くんの格好はスポーツブランドのロゴが胸元にプリントされたパーカーにスキニージャージ。いつものシンプルなパーカーとアワードジャケットではないそれは新鮮みがあってついまじまじと見てしまう。室内なのになぜかフードを被っているし、そもそもどうして廊下にいるのだろう。不思議そうに見ていたわたしに気づいたのか、これな、と被っていたフードを外した。静電気でふわりと舞う髪の毛まで特別に思えてしまうのだから、惚れた欲目というか贔屓目も大概だ。一郎くんの声は凪いだ水面のような穏やかさをもって、疲れた身体に沁み入っていく。

「防寒防寒。そろそろ帰ってくるかなって迎えに行こうとしてたんだけど。ちょっと遅かったな」
「そんな薄着じゃ風邪ひいちゃうよ。でも、ありがとう」

 その気持ちだけでも充分に嬉しい。こういうささやかな気遣いをなんの疑問もなく実行してしまえるところも彼の美徳なんだと思う。部屋へと戻っていく一郎くんの背中はなんだか笑いを堪えているかのように小刻みに揺れていて、コートを脱いでハンガーへ掛けようとしたとき「いいよ、貸して」と振り返ってわたしの手からそれを浚うように取り去った彼の表情は、やっぱり緩んでいた。

「ありがとう、……なんかおかしい!?」
「や、べつにおかしくないんだけど」
「んん?」
「さっき帰ってきたときにさ、俺がおかえりって言ったら、すげえ嬉しそうな顔してたから」
「、エッ!?」
「かわいいなって、思っただけ」
「なっ、エッ、」

 うわ、ちょっと待って、恥ずかしい。確かに嬉しかった、嬉しかったんだけれども、そうやって面と向かって言われてしまうとただただ恥ずかしいばかりなのだと痛いほどに実感した。予想もしていなかった爆弾投下に顔が急速に熱を持つ。着替えてくる、と言い捨てて脱衣所へ逃げようとしたけれど、踏み出したはずの足は進まなかった。腕を、掴まれている。後ろから聞こえてくるのはやっぱり一郎くんの笑いを含んだ楽しそうな声で。

「逃げないでくださいよ」
「に、逃げ、てはない」
「嘘、どもってんじゃん」
「…………………」

 気づいたら言いくるめられているわたしはそのまま腕を引かれて、ソファーに座るよう促された。せめてもの抵抗のつもりで少しだけ離れて座ってみたけれど、すぐにぐっと距離を詰められて。腰を抱かれたらもう、一郎くんとくっついている左半身がじわじわとくすぐったくてたまらない。一郎くんは、以前に付き合っていた時と比べてずいぶんと遠慮がなくなったように思う。それはもちろん、いい意味でだけれども。だからわたしも、自分を取り繕わないで素直になってみようと思えるようになって。

「なーに他のこと考えてんの」
「……ううん、一郎くんのこと考えてたの」

 顔を覗き込まれて、目が合って。一郎くんのきれいな濡れ羽色の髪へと手を伸ばした。そっと表面を撫でるように梳くと、目を細めて綺麗に笑う。それに気を良くしていたら不意に手を取られて指が絡まった。わたしの手をすっぽりと覆ってしまう一郎くんの雄勁な掌、乾いた皮膚の感触がくすぐったい。

さんってすぐ照れるけど、自分からのときは強気だよな」
「そ、うかな、?」
「そーだよ」
「や、でも、言われたら、恥ずかしい、やっぱり」
「ふ、今更?」

 一郎くんが唇の端をくっと吊り上げて笑った。どんどん顔が近づいてきて唇がくっついて、小さなリップ音を立ててすぐに離れた。正直に言ってしまえば、それだけじゃちょっと物足りない。じいっと目を見つめていたら、わたしの気持ちなんて見透かしたみたいに「なに?」って笑うから。

「……もっと」
「、かわいい」

 彼の言葉ひとつでこんなにも心臓をぎゅうと掴まれるのだから、高揚していく気持ちはやっぱり抑えられそうになくて、もうどうしようもない。

「俺もさ、さんにおかえりって言えんの、嬉しいんだよ」
「、うん」
「な、おかえり」

 そう言って重ねられた唇は、まるで本当にわたしのことを迎え入れて受け入れてくれるみたいで。やっぱり、わたしの帰る場所は彼なんだなあって。わたしには帰る場所があるんだって。ばかみたいに、真剣にそう思ってしまうんだ。
 だからわたしも、おんなじようにただいまと返すように呟いた。一郎くんにとっても、わたしがそういう存在であればいいと願いながら。