extra track.2
ぱちゃ、ぱちゃ。足元で水たまりが跳ねる。最寄りだからといって、スーパーまでの道のりにサンダルを選んだのはどうやら失敗だったらしい。爪先に染みた雨水はみるみるうちに爪先から身体中を冷やすように広がっていく。頭のてっぺんから、足先まで、容赦なくわたしを濡らす。傘を差す時間さえ惜しかったと言えば、彼は呆れてしまうだろうか。最悪、とひとり小さく呟く。惑わされているんだと思った。誰の為かはわかっていても、それがなんの為に繋がっているかは知り得なかった。それでも、携帯端末がメッセージの受信音を鳴らした途端にわたしは食材の入った重たいエコバッグを揺らしながら走り出していた。肩で必死に息をしながら見つけたのは、部屋の前に佇む彼の姿。
「あ、お帰り」
「……え、と、ただいま」
やわらかく微笑んで、当たり前みたいにわたしの手からエコバッグを浚うように取り去ってしまう。一瞬触れた指先の熱、いとも簡単に火照る自分の顔が憎い。帽子やマスクでも隠しきれない目元の優しさが、またわたしを悩ませた。パーカーのポケットから鍵を取り出してから、あれ、と違和感。やばい、そう思ったときには、彼にも気付かれていた。
「え、無用心過ぎじゃないすか」
「いや、急いでたから」
使うことのなかった鍵をまたポケットの中に戻してドアノブを捻った。自業自得とは言え、望まないお説教タイムが始まってしまう。先にサンダルを脱いで、そそくさと逃げるようにキッチンへ向かおうとしたわたしを捕まえるように、後ろから雄勁な彼の腕に包まれて動けなくなってしまった。その拍子に太ももに当たったエコバッグ、置いていいよと言う暇さえ与えてくれない。いつの間にかマスクを外した彼が、至近距離で囁く。
「だめだろ。さんは女の子なんだから、ちゃんと気を付けなきゃ」
「……ご、ごめん」
くすぐったい。こんな扱われ方にも、髪の毛を揺らす吐息にも、わたしは未だ慣れていないらしかった。そもそも、誰のせいでこんな急ぐ羽目になったのか。扉の向こう側から耳に届く雨音が一層強くなったら、つい身体が縮こまってしまう。
「この格好もさ、無防備過ぎ。濡れてるし」
グレーのパーカーにミモレ丈のスカートを穿いているラフな格好は彼のお気に召さなかったらしい。ようやくエコバッグを足元に置いてから、鼻先でわたしの耳朶を掠める。詰め方が悪かったせいでバランスを崩して倒れたエコバッグから食材が半分くらい顔を出してしまった。
「だって、スーパー行くだけだから」
「俺だったら声かけてる」
そんな度胸無いでしょ!とか、冗談は程々にして!とかなんとか言い返せたらいいのに、再会したときのことを考えるとあながち間違っていない気もしてしまって、俯いたまま決まり悪く、ばか、と小さく呟くことしかできない。
「さん、キスしていい?」
腕を解き前に来て、顔を覗き込もうとしている、そんな感じがする。彼の指先が控えめにわたしの濡れた前髪をかき分けた。
「……だめ」
指先の動きがピタリと止まる。え?と一度訊き返されたから、わたしもついムキになってきっぱりと言い放ってしまった。
「しないで」
「なんで?」
なんでって、驚いて顔を上げたら唇がぶつかっていた。だめだって言ったのに聞いてくれやしない。なんでかなんて、わたしが聞きたい。どうしてキスをするのか、なんで急に連絡をくれて、こうして会いに来てくれたのか。
「夕飯作りたいから、離して」
「……急いで買い物行ってくれたんだろ。そういうの嬉しい、ありがとな」
唇から伝わった熱のせいで、心音がうるさい。危うく本音をこぼしてしまいそうになる。
「……どういたしまして。すぐ作るから、座って待ってて」
遠回しな言い方でも、きっと彼には伝わっただろう。とりあえず物理的に距離を置きたくて、そう言った。気温が低くなってきた時期だとはいえ、ずっとお肉や野菜を床に転がしておくのは気が引ける。
「待てない」
「え」
彼の体温を感じるのは今日何回目だろうか。惑わされている、惑わされている。
「さんが好きって言ってくれるまで離さないから」
逃げられないことなんて、とっくの前からわかっていた。だって、わたしはもう、ずっと。
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