track.6
大雨の夜、突然の着信。通話を終えて十数分後、全身びしょ濡れの一郎くんが玄関先に現れた。ぺたりと額や頬に貼りついた髪を邪魔そうに払う姿がなんだかやけに色気を孕んで格好良く見えて、慌てて視線を逸らす。俗っぽい思考を振り払うように、平常通り平常通り、と自分に言い聞かせたけれども、仕事の都合で一郎くんが家に泊まっていくことになったものだから、なんとも目まぐるしい急展開に発案者かつ当事者のくせに正直ついていけない。
タオルで濡れた髪を抑える一郎くんの横顔をちらりと横目で盗み見て、その変容に息が詰まる。背が伸びて、肩幅が広くなって、目鼻立ちがはっきりとしてきて、まだ幼さの方が強く残っていた数年前とはまるで別人になった。そうして思い知らされる。時間の流れの速度と、わたしが立っている位置と、成長した一郎くんと、成長しないわたしとの差異。
「あ、ふとん……」
「ああ、俺ソファーでいいんで、気にしないでください」
「えっだめだよ、そしたらわたしがソファーで寝るよ」
「いやそれはさすがに意味わかんないですね」
「なんで!」
思っていたよりもずっと自然に交わされる会話。こんなの、否が応でも付き合っていた頃を思い出してしまう。前はよく、わたしの部屋で寄り添って座って話していたなあ、なんて思い出を顔に出てしまわないようにひっそりと噛み締めていれば、隣に座った一郎くんが、ぽつりとひとこと、呟いた。
「なんか、懐かしいっすね」
「……たしかに、ね」
「もう、二年も前ですよね。びっくりしますよ」
一郎くんは、穏やかでは決してないかもしれないけれど、きっと実りのある二年を過ごしてきたんだろうなと思う。わたしと付き合っていようがいまいが、関係なく。TDDが解散してわたしたちが別れてから暫くは彼になにがあったのかを知らないし、積極的に情報を仕入れようとしなかったどころかディビジョンバトルに関連したすべてのものものをシャットアウトするように過ごしていたのだ。つい最近になって漸く、Buster Bros!!!という一郎くんが率いるイケブクロのチームが組まれていることを知って、この二年間、わたしがいなくても当たり前に彼の世界が回っていることが少しだけ悲しくて、けれど正直、安心もしたのだった。別れを告げた側のくせに何様のつもりだ、という話だけれども。一郎くんはこんなに大きな存在になっているというのに、わたしは、なんにも変わっていないままだ。ずっと、ずっと、一郎くんのことを、好きなまま。
不意に、一郎くんがわたしの肩に凭れかかる。えっ。Tシャツ越しに伝わる体温に、ひくりと身体が強張った。
「……さん」
どうして、そんな声でわたしの名前を呼ぶのだろう。付き合っていた頃によく聞いていた、甘い感情を乗せたような声が、わたしの心をひどく震わせた。油断すれば今にも涙が零れてしまいそうで、ぐっと奥歯を噛んで堪える。ここで泣いたってどうしようもない、そんなことはわかっているのに。気を抜いたら漏れてしまいそうになる嗚咽を抑えるようにゆっくりと息を吸った。
わたしの顔を覗き込むように一郎くんの顔がぐっと近づいてくる。だめだとわかっているのに、わたしは、そのまま、なんで、いつからこんな、場の空気に流されるような大人になってしまったんだろう。それでも、こと一郎くんに関して。断るなんて、拒絶するなんて、できないのは、理由なんてわかりきっているけれど。
ぐっと手を引かれて身体を引き寄せられて、すべての思考は彼の体温に溶けた。腕の中で硬直するわたしの肩口に額を押し付けた一郎くんの、背中にまわった両腕にぐっと力が入って、ぞくりと粟立った背筋が聞いたことのない悲鳴を上げる。心臓がばかになったみたいにどくどくと喉元で脈打つけれど、一郎くんのそれに相殺されているようで彼がその事実に触れることはない。
好色じみていると自覚していたからこそ口にしたことこそないけれど、ほんとうは、彼に触れたくて仕方がなかった。腕にも背中にも喉にも、一郎くんがどちらかといえばそういう行為を嫌忌すると知っていながら。背中に回された彼の腕は堅実で雄勁で、鎖骨に感じる息遣いが身体中の神経だとか細胞だとかをひとつ残らず麻痺させる。
そこから名残惜しそうに身体を離すとソファに押し倒されて、端正な顔越しにぼんやりと天井が見えた。わたしが知らない二年の間に、一郎くんはいっそう大人っぽくなった。文字通り少年から青年へと変貌を遂げるように、顔つきも精悍なものに変わって、雰囲気も落ち着いたものに変わった。けれども、燃えるような感情を湛えてわたしを見下ろす赤い瞳の奥は、あのときと同じままだと思ってしまうのは。ただの、わたしの、願望なのかな。
「なんで、そんな顔するんですか」
「……わかんない」
そんな顔、がどんな顔を指しているのかは、よくわからないけれど。きっと、ひどい顔してるんだろうなあとは思う。全部の感情を飲み込んで、わからない、と笑ってみても、自分の気持ちに嘘はつけない。もう、引き返せない。言葉にする勇気なんて、これっぽっちもないけれど。
一郎くんが触れるたび、泣きそうになってしまっていたわたしには、どうか、どうか気づかないままでいて、と祈った。
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