track.7
ここ最近、疲れてる?と訊かれる回数が増えた。そんなに、目に見えてわかってしまう程顔に表れてしまっているのだろうか。えーそうかなあ、と誤魔化すように笑って答えてはみるけれども、疲弊しているのは紛れもない事実だったから心臓に降り積もる気持ちはずしりと重たいままだ。
あの日の翌朝、わたしを起こさないようにそっと静かに部屋を後にする一郎くんの背中がどうしても忘れられない。そもそも、忘れようとすることさえできなかった。けれども、それからは一度も会っていないし連絡も取っていない。指輪も替えの服も彼は全部きちんと持ち帰って行ったから、もう、わたしの部屋に一郎くんの影はなにひとつとして残っていない。
なんとなく漠然と、あの日が本当の最後だったんだな、と感じていた。それは皮肉にも、わたしが自分の気持ちを認めた夜だった。
感情を無理矢理に押し込めて、どうにかこうにか毎日をやり過ごして、なんとなく上手くいっているつもりでいた。いつかは過去のきれいな思い出にできる気がしていたのに、止まっていた、止めていたはずの時間は、いとも簡単に動き始めてしまった。もう、今までのわたしには戻れない。わたしを見下ろす一郎くんの表情、熱を孕んだ瞳、触れた手の感触、温度。ちゃんと心に、仕舞い込めるだろうか。
「かんぱーい」
騒がしい空間で突き合わされるジョッキがぶつかる音が響く。今日は落ち込みを隠しきれていないわたしを見兼ねて同じ部署の同期が計画してくれた飲み会で、事情を知らない彼女たちを付き合わせてしまうのはどこか申し訳なさもあったけれど、少しだけ気が紛れるのも本音だった。こういうときばかり都合良くお酒に逃げるのはやっぱりどこか情けないと思う部分もあるものの、素直にありがたいとも思う。
「ちょっとタバコ吸ってくる」
「ここでいいじゃん」
「俺以外みんな吸わないじゃん。個室だし外出るわ」
さすが同期いちモテる男は違うなあ、なんてぼんやり思いながら個室を出ていく背中を眺める。追加で飲もうかなあ、とメニューを眺めていると、テーブルに伏して置いていたスマートフォンが震えた。電話かな?と筺体をひっくり返すと、画面にはアイちゃんの名前。そういえば、アイちゃんもわたしを心配して飲もうよと声をかけてくれていたんだった。なんだかみんなに迷惑かけてばかりだなあ。ちょっと外すね、とわたしも席を立った。居酒屋の喧騒の中ではなかなか会話が聞こえづらくてお店の外へ出たけれど、どうやら騒がしいのは電話の向こう側もだったらしい。ごめん、やっぱり後でかけ直すね!と前触れもなく切られて通話は終わってしまった。怒涛とも言えるその勢いが、なんともアイちゃんらしい。堪えきれずに思わず笑ってしまうと、隣から降ってきた声。
「ちょっと元気出た?」
「うん。ホントありがとう」
「全然いーよ。聞いてほしかったら話聞くし、そうじゃなかったらほっとくし。でもやっぱ同期飲みっていいな」
「入ったばっかりの頃はよくやってたね〜」
こんな時代でも、世の中でも、まともな人はきちんといるものだ。懐かしい話にほんのすこしだけ気持ちが楽になった。そよそよと頬を撫でる外気が心地良い。戻るか、とかけられた声に頷いて振り返ったとき。視線の先からこちらに向かって歩いてくるひとと、目が合った。その瞬間、全ての景色がスローモーションのように流れて、わたしの目にはそのひとしか映らなくなる。きれいな黒髪から覗く赤と緑の瞳に、心臓が痙攣を起こしたような錯覚をおぼえた。どうして、こんなところで会ってしまうんだろう。呆然と立ち尽くすわたしの顔を一瞥したと思ったらすぐ目を逸らして足早に歩き去っていった一郎くん。すれ違うようにすぐ横を通ったのに、その視線がわたしに向けられることはなかった。小さくなってゆく足音にはっとして振り返ったけれど、その背中はもう遠くへと消えていた。心臓が引き攣つれるように痛む。なんか、どうしよう、心底情けないけれど、泣きそうだ。やっぱり、苦しい、どうしようもなく。
「大丈夫か?飲ませすぎた?」
「……ううん、あくび出そうだなって」
「なんだそれ」
憂慮を滲ませた表情で問いかけてくる同期に、思わず誤魔化すように無理やり口角を上げて笑った。口元、引き攣ってないかなあ、涙目なの、バレてないかなあ。お店の中へと入っていく同期の後ろでこっそり目元を拭ったけれど、濡れた指先と睫毛がどうしようもなくあの雨の日の夜を思い出させて、ますます泣きそうになってしまうから。またあくびをするふりをして、顔を覆ってそっと俯いた。
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