track.4
「さん!本当すいません、ありがとうございます」
「いや、わたしの方こそ迷惑かけちゃってごめんね」
「全然、助かりました。これ、よかったらどうぞ。バタバタして申し訳ないんですけど」
「ありがとう。忙しいのにごめんね、わたしもこれ、お詫びに」
「うわ、気遣わせちゃってすいません。ありがとうございました、じゃあ」
待ち合わせはイケブクロにあるカフェだった。今回の目的である指輪は無事に返すことができたというのに、気分は軽くなるどころか重くなるばかりだ。一郎くんは仕事で急な依頼が入ったようで、指輪を返して、一言二言当たり障りのない会話を交わしただけ。ほんの数十秒の出来事。素面のまともな状態で久しぶりに会った彼は、二年が経っているという事実を抜きにしても以前より随分と大人っぽくなっていた。確か十九歳になっただろうか、アイちゃんにも"ハタチぐらい"と形容されていたことを思い出す。一郎くんがくれた有名なチョコレート屋さんの名前が書かれた紙袋に視線を落として、それが以前ふたりでテレビを見ていたときに偶然目をつけていたお店のものと寸分違わなかった事実を認識して、わたしはなんだか悲しくなってしまう。そして、そんな身勝手な自分にぞっとした。とどめを刺すような形で彼を傷つけたわたしには悲しいだなんて思うだけの資格はない。きっともう、会えないのだろう。
帰ってテレビを点けると、偶然にもディビジョンバトルの特集をしていたらしく一郎くんとその弟さんたちの姿が映っていて、驚きにリモコンを取り落としてしまった。今となってはテレビに映るようにまで大きな存在になった彼と先程までプライベートで会っていたことを思い出して、ひどく複雑な気持ちになってしまう。勝手にひとりで浮かれてひとりで落ち込んでいるのだから質が悪い。都合の悪い景色には目を瞑って、都合の良い期待に勝手に胸を躍らせて、結局、もう、なにもかもが違うのだ。わたしは一郎くんに一体なにを求めているんだろう。なんだか怖くなって、それ以上を考えるのはやめてしまった。テレビのチャンネルを変えるのもなんだか気分ではなくて、そのまま電源を切るとリモコンをラグの上に放り投げた。
もう、他人なのだ。わたしと一郎くんは、ただの他人。彼を一番愛しく思う事実を蔑ろにしたそのとき、変わらないと思っていた自分は変わってしまった。そして、よく知っていたはずの彼はもう知らないひとになっている。例えば趣味嗜好が同じでも、口癖が同じでも、あの頃と同じにおいがしても、彼はもう知らないひとだ。わたしが知っていた山田一郎とは別人だ。もう、知った気になって、やっぱり、だなんて言えやしないのだ。未練がましい大人ほどみっともなくて惨めなものはない。全部が全部、とっくに、終わったこと。いい加減、わたしは前に進まなければならない。
それから一週間。気を抜くとすぐにまたぐるぐると考え出してしまいそうだったから、自分のキャパシティぎりぎりまで仕事を詰め込んで馬車馬のように働いた。終電手前で帰ったらすぐに寝るような社畜めいた生活を送っている。私生活の虚空と寂寞を埋めるように仕事へ逃げるだなんてなんともダメな社会人だなあと儘ならない気持ちにはなるけれど、余計なことを考えなくて良いのは気持ちが楽だった。漸くやってきた金曜の夜、その日溜まっていた仕事をなんとか片付けて、のろのろと重たい身体を引きずって帰路を歩く。家に着いた途端、外ではプールの水をひっくり返したように激しく雨が降り出した。
なんとなく、今日、一郎くんからもらったチョコレートを食べようかなと思っていた。いつまでも置いておくわけにはいかない。いつまでも、このままじゃ。綺麗なラッピングを解いて箱を開ければ宝石みたいにきれいなチョコレートが並んでいて、目の保養と言っても過言にはならないであろうそれに一週間蓄積した疲れも吹き飛ぶような気がする。どれから食べようかなあ、と同梱されていたリーフレットとチョコレートとを見比べていれば、着信を知らせてスマートフォンが震えた。電話かなあ、誰だろう、とカバンの中を探る。探り当てたスマートフォンを取り出してその画面を見た途端、身体が強張るのが自分でもわかった。画面に表示される着信マークと"山田一郎"の文字。身体中を、なにかが駆け巡るのを感じた。こんな、こんな偶然ってあるんだろうか。期待と不安とが入り混じる感情に襲われながら、僅かに震える指で画面の受話器マークをタップする。
「……もしもし?」
『――さん?すいません、今家にいます?』
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