track.5



 依頼が終わって事務所を出ようとした頃、突然外で大きな音が響いた。なんだろうと首を傾げたけれど、スタッフさんの話し声が聞こえて、それがどうやらゲリラ豪雨のせいらしいとわかる。最悪だ。今朝に見た天気予報の降水確率が高くなかったから傘だって持っていないし、この近辺にはコンビニもないからビニール傘を買うこともできない。比較的近場だからと車ではなく電車で来てしまったことを後悔した。
 こうなったら濡れてしまっても仕方がないとして、もうさっさと帰ってしまおうと雨の中を歩き出す。すっかり髪も服も濡れてしまって、肌に貼り付くそれを申し訳程度に水気を絞って電車に乗ったところで、今度は雨による視界不良の影響で運転見合わせのアナウンス。マジでツイてないんだけど、なんだこれ。とりあえず二郎と三郎には帰りが遅くなることを一報入れて、まだ動いているらしい各停に乗り換えた。……あ、これ、さんの家の最寄りに止まる電車だ。俺が降りたい乗換駅はその先なんだけど、なんて考えていたのに、この電車はあと僅か数駅しか進めないらしい。
 結局止まったのはさんの家の最寄り駅だった。運転再開はいつになるんだろう。人の波に押し出されるように電車から降りた途端に疲れがどっと押し寄せる。無意識のうちに、手にしたスマートフォンで連絡先からさんの名前を探していた。もし、彼女が今家にいたら。そんな考えが脳裏を過る。自覚症状が無い程に疲弊していたのか、いつになれば動くのかも分からないものを一人で待っているのがひどく苦痛に思えて、迷って迷って、思い切って通話ボタンをタップした。運休してしまったダイヤが再開する目処も立っていないし、今の最善策はこれしか考えられない。そこに決して、他意なんてない。心の中で誰に向けたものでもないカマ臭い言い訳を繰り返す。
 先週、せっかく会ったのに少ししか話すことができなかったのが心残りだった。こんなチャンス、二度とないかもしれない。そんな考えを、掻き消すように。

『――……もしもし?』
さん?すいません、今家にいます?」
『うん、いる、けど』
「電車、止まっちゃって。たまたまさんとこの最寄りまでは進めたんですけど、そっから動いてなくて。再開の目途も全然立たないらしくて、申し訳ないんすけど、ちょっと寄らせてもらってもいいですか?」

 戸惑いを携えたその声を、頭でも心でもなく、覚えていた。
 降りしきる雨の中を傘も無くさんの家まで走った。早く会いたい。そんな気持ちが浮かんでくる現金な自分に気づいて頭を振った。濡れて顔にぺったりと貼りついた髪が気持ち悪い。文字通り濡れ鼠のような状態で現れた俺を見て、玄関の扉を開けたさんは案の定くるりと目を丸くした。どこか感じた気まずさを誤魔化すように「傘忘れちゃったんすよ」と笑ってみたけれど、そんなことは気にも留めていないようにさんは「大丈夫!?」と心配そうに眉を下げる。結局、どこまでも優しい人なんだ、彼女は。
 半ば押し切られるかたちで風呂を借りて、カバンから引っ張り出した予備のTシャツに着替える。絞れば水が滴る程にびしょびしょだった俺の服は乾燥機にかけられているようだった。部屋に戻れば俺のぶんの飲み物まで用意されていて、さんはぼうっとテレビを見ている。いつか見た光景のようなそれに、付き合っていた時のことを思い出さずにはいられなかった。

「ごはんは食べた?おなかすいてる?」
「あー、食ってない、けど、大丈夫です」

 電車は、どうなったんだろうか。さすがに、動いてるよなあ。変な期待を抱いてアプリを開けばそこには運転再開の文字。もう、ここにいる意味はなくなってしまった。それでも「帰ります」そのたったひとことが言い出せない。わかっているのに、帰りたくない。まだ一緒にいたいと思ってしまうのだった。
 さんの隣に腰を下ろすと、不自然に空いた距離が今の俺とさんの関係を物語っているようで切なくなる。湯気を立ち昇らせるマグカップを手に取ったさんが、ぽつりと呟いた。

「……一郎くんは、明日も仕事?」
「あ、そうっすね……、朝早いです」

 無意識だった。さんに初めて、付き合っていた時だってついたことのない、嘘をついた。本当は仕事だって午後からで、取り立てて急ぎの用事があるわけでもない。それでも、俺はきっと、次に続く言葉を望んでいた。さんが俺のことを大切に考えてくれているのを知っていて、彼女ならきっとそう言ってくれるだろうと思って、それで。

「……どうする?もしあれだったら、泊まっていく?」
「……、いいんですか?」
「明日休みだし、大丈夫だよ」
「ありがとうございます、本当すいません」

 弟さんたちにはちゃんと連絡入れてね、とさんはやわらかく笑った。俺の胸に鋭く刺さった小さな罪悪感さえ、さんといたいという欲に飲み込まれていくのだからどうしようもない。なにもかもを流し込むようにマグカップの白湯を口にしたけれど、高まる気持ちは、治まってはくれない。