track.3



 一郎くんと思わぬ形で再会をしたあの日から、わたしのカバンにはずっとあの指輪が眠っている。ただし再会とは言っても、わたしは酔い潰れていてなにひとつとして覚えていないのだから、本当にそう呼べるのかどうかはわからないけれど。
 連絡を取ろうと思って何度ラインの画面を開いたことだろう。わたしを家まで送ってくれたのは一郎くんで間違いないはずなのに。もしも街中で会うことがあったら渡せるように、と指輪をずっと持ち歩いているけれども、そもそも居住区が違うのだからそんな偶然が続くことなんてあるはずもなく。ただただ時間だけが過ぎていく。何度目かはもはやわからないけれど、今日もまた画面上で一郎くんの名前を探してしまっている。付き合っていたときはいつも一番上にあったトークの見出しも、今ではすっかり下部に埋もれてしまった。メッセージの入力欄には、送ることのできなかった『この前はありがとう』の文字がまだ残っている。彼は、指輪を失くして困ってはいないだろうか。
 ぐるぐると考えて考えて、無駄に悩むのもばからしくなってきた頃、意を決して送信ボタンをタップすると、予想外にもすぐに既読はついた。慌ててトーク画面を閉じたけれど、ポコン、と気の抜けた音を立てて画面の端にプッシュ通知のポップアップが浮かぶ。『気にしないでください』『大丈夫でした?』続けて届いた返事の中に、指輪の文字はなかった。『うん。ごめんね、助かった』そう返したところで、ふと思う。もしかして、気づいていないのだろうか。可能性はゼロとは言い切れない。思えば付き合っていたときも、よく物を失くしていたような気がする。

『指輪、忘れていったよね?』
 悩んだ末に、要件のみの短い文章を送った。既読になった画面をぼんやりとただ眺める。トーク画面の背景はふたりで観に行ったときに撮った映画のポスターのまま。今はもうとっくに公開されていないそれが、彼との思い出は全て過去のことだと思い知らされた気がして、懐かしいよりもひどく苦しかった。今度はなかなか返事が来なくて、忙しいのかなあ、返したいなんて言ったら迷惑かなあ、なんていろんな考えがまた頭をぐるぐると巡り始めたそのとき、メッセージの通知にスマートフォンが震えた。トーク画面を開いて文章に目を通す。

『うん。悪いけど、返してもらえるか?でも忙しいよな』
 これって、今度は、酔っていない状態で、素面の状態で会うってことなんだろうか。心のどこかで、こういう都合の良い展開を期待していたことは否めない。それでも、ただの妄想と実際言葉にされてしまうのとではわけが違う。どうしよう、と戸惑う一方、また彼と会えることに心を躍らせている自分がいた。もう他人なのだと自らを諌めても落ち着いていられるわけがない。

『最近は忙しくないから、わたしは大丈夫だよ』
『来週の水曜日の夜は?』
『わかった。空けておくね』

 ありがとう、というメッセージとニコニコしたかわいい犬のキャラクターのスタンプが返ってくる。一郎くんに似ていると言ったせいで、彼はよくこのスタンプを使うようになったんだっけ。昔と、同じだ。
 続けて指定された待ち合わせ場所も付き合っていた頃に使っていた喫茶店のままで、時が止まっているような錯覚にそっと目を閉じる。変わらない画面越しの彼を前に、妙な期待を膨らませていた。寂しさからくる感情ではなかった。いつか、忘れていたものたちが記憶としてではなく感情として蘇ったのだった。
 いつまで勘違いして生きるつもりなんだろう。あの日からもう随分と季節は巡っているのに。変わっていない、はずがないのに。