0



「人生って、なかなかうまくはいかないものね」

 そう言って、彼女が鼻をすすった。
 彼は爆発してしまいそうな息苦しさを感じる。


1



 席に着くやいなや「スネークヴェノム、ボトルでください」と注文された時点で、既にわかってはいた。「アー、スネークヴェノム、ボトルで?」と思わず片言になる戸惑い気味のウェイターをキリエは微塵も気にする様子はなく「あとフィッシュ・アンド・チップスと、ローストビーフのマッシュポテト添えと、キドニー・パイと、アンチョビキャベツと、パドロンのフライください」とメニューも見ずにどこか投げやりな声色で続ける。後半はいい、このパブに来ればいつも頼む彼女の大好物だ。けれども。

「最初からスネークのボトルって、いけんの、お前。そんなに強くないだろ。それに、今日はふたりだけなんだぞ」
「知ってる、でもスネークならいくらでもいける、と思う」

 シリウスもそれ以上は止めなかった。いや、止められなかった、の方が正しいのかもしれない。ウェイターが下がってパブ特有の喧噪が耳にはっきり届くようになっても、キリエは俯いたままでシリウス視線を合わせようとしなかった。こつん、とシリウスのすらりと伸びた指がテーブルを叩く。

「――また、別れたんだな」

 すこしの沈黙のあと、キリエがぐっと顔を歪めて、噛み締めるようにゆっくりと頷いた。


2



 シリウス・ブラックとキリエナイトレイが出会ったのは、今からおよそ8年ほど前に遡る。
 幼馴染とまでは言えないけれども、成人を過ぎ19歳になったばかり、ましてや一昨年ホグワーツを卒業したばかりのふたりにとっては人生のほとんど半分で、物心がついてからのほぼすべてだ。つかず、離れず、常に穏やかな温度を保ち続けている同じ年頃の男女を、シリウスは自分たちのほかに知らない。
 だから、たとえ数ヶ月ぶりに顔を合わせたとしても、意識的に知ろうとしなくたって会って五分もすれば相手の状態がだいたいわかってしまう。特にキリエのこの表情は、もう過去に何度だって見てきたものだ。

「とりあえず、飲むか」

 テーブルにどんと置かれたボトルを見遣って、シリウスは苦く笑う。本当にこれを開けるつもりなのか、たいして強くもないふたりで。

「……ありがとう、シリウス」

 ようやく口を開いたかと思えば、キリエが口にしたのはそんな社交辞令だった。「なにが」と思わず吹き出して、くしゃりと目を細めて笑ったシリウスは片手で口許を押さえながらキリエのグラスに酒を注いでやる。「久しぶりに飲もうって誘ったのは俺なんだから、言うなら俺がキリエに礼を言わなきゃな」
 顔を上げたキリエが、眉を下げたまますこし目を細める。それでなんとか笑っているつもりらしかった。

「そうね。シリウス、いつもすごいタイミングで連絡くれるから、びっくりする」

 返事の代わりにテーブルに肘をついて、身体をすこし乗り出すようにして彼女を見上げると、動揺したようにふたつの瞳が揺れた。目を合わせたままでゆっくりと頷いてやると、誰の目から見てもあきらかに強張っていたキリエの肩の力がわずかに弛んでいくのがわかる。重たい唇が、なんとか期待した形に開きそうだ。
 彼に見つめられていると、自分でも驚くほどに正確な言葉を吐き出せるのだと、いつだったか、どこかの今日と同じような夜に、彼女は確かに言ったことがある。


3



 この8年間、キリエが幸福で円満な恋愛をしたことは、ただの一度もない。それは決してキリエに非があるわけではないことを、シリウスはよくわかっていた。そして同じぐらい、相手にも非がないことも。

「なんでこうなっちゃうんだろ」

 毎回、別れを経験するたびに、俯きながら手首の内側で瞼を押さえたキリエがそう呟く。

キリエは悪くないだろ」
「あのひとも悪くないのよ」

 ほんとに、ほんとにいい人なんだけどなあ、という彼女の呟きを、シリウスはいつも否定することができない。
 どうしてそうなってしまうのか原因は定かではないけれども、これまで、キリエの恋は半年以上続いたことがない。
 13歳、ホグワーツに入学して2年が経った頃は、片想いしていたレイブンクローの生徒と付き合った。クディッチチームのシーカーで、人望もあって男らしい、他人にさほど興味のないシリウスも認める「いい男の中のいい男」だ。けれどもキスどころか手も繋がずに、ふたりは3ヶ月で破局した。「ナイトレイのことは好きだけど、友達に戻りたい」と言われたことを、シリウスは深夜に談話室の暖炉の前でソファに沈んだ彼女の口から聞いた。
 以降、学年が上がっても、ホグワーツを卒業した彼女がマグルの大学に入っても、同じようなことしか起こらなかった。「嫌いになったわけじゃない」「たぶん、付き合うとかじゃなかった」このあたりの言葉がほぼ毎回飛び出した。
 今度の恋人が最長記録らしい、と聞いたのはわずか三週間前のことだ。初の半年の大台に乗りそうなのだという。相手とは遠距離だけれども、それなりにうまくいっているらしい。ならば飲もう、とシリウスが誘ってみれば、現れた彼女の足取りは明らかに重かった。ああ、またかと思った。

「飲みましょう」

 アルコール度数67.5%のバカみたいに強いビールをなみなみと注いで、キリエがどこか据わった目で凄む。お互い既に二杯目だけれども、シードルやジンジャーエールで割りつつ飲んでいたからかまだ瓶の中身は揺れるくらいにたっぷりと残っている。一方、彼女の首筋はもう赤くなっていた。

「シリウス、飲んで。今日はふたりでボトルを空けるの。反対意見は聞こえません」
「俺、明日用事あんだけど」
「全部キャンセルして」

 やや食い気味に勢いよくそこまで言い切ったキリエが、はっと我に返ったように息を止める。眉を下げて苦く笑っているシリウスの顔を見るやいなや、申し訳なさそうに眉を下げて、視線をついと逸らしながら口元を引き結んで俯いた。

「……ご、めん」
「珍しいな。キリエがそんなこと言うなんて」
「こんなんだから駄目なのね。ごめんね、さっきのはナシにしてね」

 どこか居た堪れなさを誤魔化すように、へらりと無理矢理に口角を上げてはみたものの、熱い息をつく口元は寂しげで、少し痩せただろうか、とシリウスは胸中でひっそり思う。

「いや、嬉しいって。そんな風にワガママ言ってくれんの、初めてだろ」

 すこしでも変に傾けてしまえば今にも溢れてしまいそうな、表面張力だけでバランスを保たれているようにふるふると震える水面。グラスに注がれたアルコールを溢さないようにそろりと近づけて、かちんと軽い音を立てる。「付き合うから。吐くまで飲むか」努めて軽い調子でおどけたように目を細めたシリウスが首を傾けると、ようやく、キリエがすこし笑った。


4



 結局、案の定シリウスよりも先にキリエが潰れた。
 大して酔いに強くないのはお互い様だったけれども、だいたい荒れているときはシリウスが止めてくれていたのだ。宅飲みや悪戯仕掛け人が揃った時ならばいざ知らず、パーティになればどちらかといえば介抱する側の役目に徹しがちなふたりの集いは、いつだって理性的で、愉快なものだった。
 ところが今日は約束通り、ふたり共がストッパーを外してしまったものだから、元より酔いやすいキリエはあっという間に陥落。途中からパブを出るまでの記憶がほぼ無かった。

「うぇえ、きもちわるい……」
「マジでボトル空けるからだろ。ああもう、ほら、ちょっと休めよ」

 シリウスから受け取ったビンの水を呷るように喉に流し込んで、けほ、と噎せながら荒い息をつく。過呼吸になりかけている背中をさすってやると、服の上からも背骨の位置がよくわかった。
 やっぱり、痩せたな。息が詰まって、心臓の下のあたりがぎゅっと縮こまるような感覚をおぼえる。こめかみを押さえながらしきりに左手首に巻いた腕時計を気にしていたキリエが、かぼそい呼吸の間にどうにか言葉を吐き出そうとしていた。

「ごめ、シリウス、あした、予定が、あるって」

 こんなことになって、まだ人のことを考えているのか。滲む脂汗でぺたりと額に張り付いた前髪を指先で解いてやりながら、呆れたように口を開く。「お前、俺のことじゃなくて、自分のこともちょっとは考えろよ。そんな場合じゃないだろ」
 ビンを持つキリエの指が一瞬力んだ。何気ない一言が、ガラスの破片のような鋭さをもって心臓のどこかに突き刺さってしまったようだった。

「逆のこと、言われたの」

 それは、今日の中で一番弱々しい声だった。背中を撫でる指の動きがぴたりと止まる。

「ちょっとは俺のことも考えてって、見てくれって」

 シリウスの掌の下で、薄い背中がちいさく震えるのを感じる。ビンと彼女の指が隠しているせいでその表情は見えないけれど、涙を堪えているのは火を見るよりも明らかだった。

「ちゃんと、見てたはずなんだけどね……」

 人生ってうまくいかないものね、と言って、キリエは鼻をすする。そうして目線を逸らしたまま、ふっと息を吐く。どこからどう見ても大丈夫なわけなどないというのに泣いていないふりをしているその後ろ姿に、気を遣わせてしまっているのは明白だった。くそ、と胸中で呟くと余計にひどく儘ならない気持ちになってしまって、制御の効かない感情が沸き上がる。キリエにばれないようにぐっと唇を噛んで、抱き寄せるように華奢な肩を掴んだ。

「行くぞ」

 申し訳ない、だとか、予定があるんじゃ、だとかなんとか言うキリエを黙らせて、というか黙殺して、ほとんど拉致するように自宅へ連れ込んだ。16歳の頃に勘当覚悟でブラックの家を出て、資金援助をしてくれた叔父のアルファードが残してくれた遺産で手にすることができた一人暮らしの住居だった。荷物を置いて冷蔵庫から未開封のミネラルウォーターのビンを取り出すと、苦しげに呻いている彼女をユニットバスのトイレへ放り込む。目まぐるしい状況についていけず唖然としているところを後ろから抱きかかえて、シリウスは耳元ではっきり命じた。

「吐け」

 空気に溶け消えそうな、ほとんどため息のような声で、キリエが薄く開いた唇の間から「へ、」と溢した。

「早く吐け。もう見てらんねえ。吐いたら楽になるから」

 な、なんで、やだ、とキリエが今にも泣き出しそうな、子どものような声を出す。「いや、吐きたくない」

「言っとくけどお前、ほとんどアル中寸前だぞ。吐かなきゃだめだ。慣れないのにあんな飲み方するからだ」
「や、やだ。吐いた事ないもの。こわい。やだ」
「だめだ。吐け」

 なぜだかわからないけれども、どうやらシリウスがすこし怒っているらしい。思い当たる節は両手を使っても数えきれないくらいにあったけれども、どうしてこのタイミングでこんな怒り方をしているのか、わけがわからなかった。刻み込まれたように眉間にはっきりとしわを寄せて、いつも優しいてのひらはがっちりと二の腕近くの両肩を押さえている。まるで身動きがとれない。吐くことが怖いだけじゃなかった。無理矢理連れてこられたとはいえ、ここは男子の一人暮らしの家のトイレなのだ。そんなところで吐けるわけがない。

「ほんとにやだ。やめて、シリウス」

 本心からの願いを、感情の発露が不器用な節はあるけれど優しい彼なら間違いなく聞いてくれると思っていた。けれど、人に無理強いさせることなんてなかったはずの、シリウスの表情が先程よりもずっと強張って、不意に身体を離したかと思えば、キリエの背中を思い切り前へ押した。

「ひとりで吐けないんだったら、手伝ってやる。――噛むなよ」

 そう言うと、指を二本、思い切りキリエの口腔へ突っ込んだ。

「、っう……!」

 喉の奥、自分でも触れたことのない場所を思いきり押されて、ざわり、と嘔吐感と恐怖が一気に湧き上がる。きもちわるい。こわい。シリウスの指が、くちのなかにあるのに。どうしても、どうしてもどうしても吐きたくなくて、思わずキリエは咥内に入れられた指に歯を立てた。なるべく軽く噛んだつもりだったけれども、酔って神経が朦朧としていたから加減にあまり自信はない。それでもなんとか、シリウスを止めることには成功したらしかった。圧迫感が消えると同時に喉の奥に突っ込まれていた指がわずかに引っ込められて、ようやく酸素が戻ってくる。大きく息を吸い込もうとしたけれども、未だシリウスの二本の指は咥内に置かれたままだ。これ以上噛んでしまわないように口を開けているから、舌も動かすことができずに唾液が溜まって苦しさを感じる。離してほしくて顔を上げると、シリウスが今までに見たこともないような表情をして、こちらを見ていた。

「……あ、」

 シリウス、と呼ぼうとしたけれども、指を咥えているせいで母音も満足に発音できない。どうしたの、も、はなして、も、口にできなかった。すこし、泣きそうに見える、と思った。口の中にあるものをどうすればいいかわからず、とにかくこれ以上みっともないことにならないように引き離そうとキリエがゆっくり顎を引くと、シリウスがより一層に苦しそうな顔をした。やはり強く噛んでしまったのだろうか、と罪悪感が湧き上がる。そうして、指が完全に抜ける、と思ったら、両手で頬を掴まれた。シリウスの顔が近づいてくる。あ、キスされる。決して緩慢な動きではなかったのに、どこかスローモーションのように見えたその視覚情報が未だアルコールの残る惚けた頭に伝達して、キリエは本能的に思った。事実、彼はそうしようとしていたように思う。けれども額が触れたところで距離が止まった。目の前では、シリウスの色素の薄い双眸が鈍くグレイに光って、苦しげにひそめられている。

「俺が、ずっと彼女も作らないで」

 すこしでも顔を寄せれば今にも触れてしまいそうな距離でシリウスの唇が震えて、そうして心臓の底から絞り出したような声色で囁かれた言葉に、憤りにも似たどこか怯えの色が滲んでいることに気がついて、キリエはわずかに目を見開いた。

「お前のしあわせを、どんな気持ちで願ってたと思う」

 そういえば。そういえば、どうしてシリウスは彼女をつくらないんだろうね。って、8年間ずっと尋ねられたし、当然自分だって疑問に思っていた。けれどもそれらがあまりにも日常的に繰り返される質問だったものだから、知らない間に「ピンとくる子がいないんですって」とシリウスの代わりに返答してやるのが、いつの間にか当たり前になってしまっていたのだ。彼には気に入りがあって、忌避するものがあって、拘泥するものがあって、けれど愛恋はないのだとばかり思っていた。彼の本心も、本音も、なにひとつとして知らなかったくせに。
 彼ほどハンサムならば彼女なんてすぐにできただろうし、実際、告白の場面やバレンタインデーに幾人かの女生徒からチョコレートを貰っていたのを見た記憶もあるのだけれども、彼に思いを寄せる女生徒の願いが叶っているのはとんと見たことがない。
 シリウスは、彼女つくらないの。いつか軽い調子でそう訊いたことがある。彼は一瞬目を見開いて、そして、先程のような顔をしたのだ。怒っているような、軽蔑しているような、とても苦しそうな顔をしたのだ。

「……俺は、俺はずっと、お前のこと」

 泣きそうな顔をして、泣きそうな声色で、シリウスが言葉を絞り出す。ほんの数センチの距離をそうして無くされた。

「ずっとお前だけ、好きだった」

 完全に触れると思った唇が寸前で止まって、そのまま通り過ぎた。思い切り体重をかけて抱きしめられて、キリエの後頭部が開いたドアの角にごつりと当たる。脳は後頭部の鈍い痛みを訴えてきているけれども実際はそれどころではなく、シリウスの頭が肩口に埋まってやわらかい毛がちくちくと首に刺さり、布越しに彼の押し殺した息遣いが伝わってくる。彼に、こんなふうに抱きしめられたのは8年に及ぶ付き合いの中でも初めてのことだった。日頃の余裕を携えた涼しげな表情とは打って変わってそのてのひらは熱くて、華奢に見えた体つきも、思っていたよりずっと、ずっと大きかった。っは、と、耳元で苦しげな息継ぎが聞こえる。

「……悪い。こんなこと、酔った勢いで言いたくなかったんだ、けど」

 彼の声は水気を含んでわずかに上擦っていた。

「俺、最低だな」

 視線も合わせず、俯いたままになんとか身体を離したシリウスは既にぬるくなったミネラルウォーターのビンをキリエに握らせると、赤くなった目許と眼球を隠しながらバスルームから出て行った。