5



 あの日、結局それ以上どちらも話を切り出さないままに朝を迎えて、は始発で自宅へ帰った。それから数週間、顔を合わせることも連絡を取り合うこともほとんどなかった。共通の友人の集まりにも、シリウスは仕事の都合で予定が合わないと言って顔を出すことはなく、それも恐らくは嘘なのだろうとはなんとなく勘付いていたけれども、だからと言ってそれらしい解決策が思い浮かぶわけもなく。ずるずると先延ばしにしたまま、いつまでも口に出せずにいた。

、また別れたんだって?」

 気持ちのいい風がさらさらと髪を揺らす、とても天気の良い日のことだった。昼下がりに大学への坂道を上っていると、突然真横に巨大なバイクが止まる。ヘルメットを外しながら話題の内容には極めて似つかわしくない明るい声色でそう尋ねてきたのは、仕事帰りらしいジェームズ・ポッターだった。学生時代はグリフィンドール寮のクィディッチチームでチェイサーを務めるくらいには飛行術に長けた箒マニアである彼がバイクに乗っているのはシリウスの影響だろうか。癖の強いくしゃくしゃの黒髪はヘルメットのせいかいつもよりぺったりとしていて、メガネの奥にある榛の瞳が陽の光に反射して眩しささえ感じる。

「うん……ごめんね、せっかくジェームズが紹介してくれたのに」
「別にいいよ、そういうのはどうしようもないんだから。それより、荷物持ってあげようか?」
「大丈夫、ありがとう」

 ごく自然な様子でバイクから降りて、ジェームズは隣に並んでバイクを押して歩き出す。シリウスと同様に付き合いの長い彼は、はじめはやんちゃな弟のようだったのに、いつの間にか随分と頼りになる存在になっていた。長年懸想していたリリーとの恋路が叶ってからは幾分か鳴りを潜めたけれど、学生時代はシリウスやリーマス、ピーターらとつるんでいて、悪戯仕掛け人と呼ばれる程には有名な問題児であった彼はしかし、優秀な成績に反せず根は真面目で素直で篤実な性格であることをはよく知っている。

「ジェームズ、気まずくなったりしないかな」
が気にするようなことはなんにもないさ。結構いい別れ方だったんだろう?」
「まあ、喧嘩別れではない、けど」

 それでも、随分と気まずい別れ方をしたと思う。後味が良いとは決して言えなかったし、少なくとも、には最後まで彼の真意がわからなかった。

「仕方ないと思うけどなあ、僕は。がどんなに良い男と付き合ってもなーんかうまくいかないなと思ってたけどさ、今回の一件でよくわかった気がするよ」

 バイクを押しながら、ジェームズが弛い表情でからりと笑った。は思わず立ち止まりかける。

「いまなんて?」
「え?だから、やっとのことがわかったなあって」
「え、な、なんで」

 振り返ったジェームズが、意外だとでも言いたげにぱちりと目を丸くした。クリーム色の木漏れ日が弾丸のように降り注いで、彼の黒いバイクを所々眩しく切り取っている。

、シリウスの話ばかりしていたんだろう?そりゃあ、シリウスみたいなハンサムで優秀な人間と比べられたら相手の男は劣等感しか感じないだろうし、というか、それだけ仲が良いのなら、もうシリウスと付き合った方がいいんじゃないかい?」

 冗談めかした茶目っ気たっぷりの様子で、ひどく面白いことを言ったかのように声を上げてけらけらと笑ったジェームズは、つられて笑うことのできないを不思議そうに見遣ると、眉をひそめてみせた。「どうしたんだよ。いつもと調子違くない?具合悪い?」そんな言葉に口の中でもごもごと詫びて、はようやく歩き出す。
 突然手元に届いたピースが、パズルにぴったりとはまってしまった。


6



 彼に、会わなければならない。
 シリウスがアルバイトをしている喫茶店は、が通っている大学近くの住宅街で三十半ばの若いマグルのシェフが開いている、隠れ家と言ってもいいこぢんまりとした個人店だ。古本屋も珈琲屋も開きたかった店主が、どちらも一緒にしてしまえと趣味全開で経営しているらしい。偶然立ち寄ったその店でマスターと意気投合して、半ば引きずり込まれるような形でアルバイトを始めた、という話を聞いたのは、確か昨年の暮れのことだ。やさしくて自由で、おもしろいおじさんだよと、ジェームズやリーマスも絶賛していた気がする。
 なるべく混雑時を避けて、五限をすこし過ぎた頃にはカフェに入った。コーヒーの匂いに混じってかすかな香水の匂いが鼻腔を擽って、明るい笑い声が耳に届く。カウンターの奥で白いカッターシャツに黒いロングエプロンをつけたシリウスが、客と思われる女の子数人に囲まれていた。ああ、そうだ。身近にいすぎて感覚が麻痺していたけれども、彼はとてもモテるのだ。カウンターに座る女の子たちはとても華やかで、自分磨きに手抜きがない。そんな子らに囲まれてカップを拭いているシリウスは、確かにとてもかっこよかった。すこし困ったように眉を下げて笑う表情も、愛想笑いだとわかっていても実に様になっている。
 一瞬ドアのところで躊躇したの存在を、ベルが代わりに知らせた。いらっしゃいませ、と声をかけようとしたシリウスと目が合う。がどういう表情をするべきか迷っている間に、ぱっと彼の表情が明るくなった。



 彼の声で呼ばれる名前の響きが、なぜだかとても懐かしく感じられた。みずからを取り囲むようにしていた女の子たちには目もくれず、カウンターからシリウスが駆け寄ってくる。その姿がどこか飼い主に駆け寄る犬のようで、パッドフットというニックネームは伊達じゃないんだなと脳裏でぼんやり考えた。

「どうしたんだよ、今日は。が来てくれんのなんて初めてだろ」
「うんあの、ちょうど、通りかかって」
「そうか、コーヒー飲んでくか?好きな味淹れてやるぜ?」

 店番は、と訊くとちょうど今から休憩だからと返された。手首のすこし上あたりを掴むてのひらにそのまま引っ張られて、気づけばカウンターも厨房も通り越して奥の個室に連れて行かれていた。途中厨房ですれ違ったシェフ姿の人がきっとマスターなのだろう、「休憩行ってきます」と軽い会釈のみで顔も見ずに言い放ったシリウスに対して、穏やかな笑みを浮かべた彼は無言で手を振っただけだった。
 おそらく休憩室兼倉庫となっているのであろう個室には、大きなエスプレッソマシーンとポット、そしてが見たこともない、たくさんの種類のコーヒー豆や紅茶の葉が置かれていた。倉庫特有の木のような匂いのなかに、様々な豆や葉の匂いが混ざっている。

「すごいね、これ」
「な。集めるのが趣味らしいんだけど、ひとりじゃ飲みきれないって、俺たちに勝手に飲んでいいって言うんだよ。太っ腹だろ」

 座れよ、と勧められたスツールに腰掛けると、シリウスがエプロンの紐を結び直しながら「なにがいい?」と訊いてきた。なにがぴったりかわからずに首を傾げて戸惑っている間に、「じゃあ俺の一番得意なやつ、作ってやるよ」と勝手に注文を決められる。コーヒーミルで豆を挽いて、なにやらぎゅうぎゅうと押し潰して、機械にセットしたかと思うと、途端にエスプレッソの良い香りが充満していく。いつかテレビで見たバリスタみたいだ。手際よくスチームしたミルクを揺らしながら注いでいく。十数秒後、の前に置かれたカップの中には、綺麗なリーフ模様が浮かんでいた。

「す、すごい!」

 思わず歓声が漏れた。シリウスがやや満足げな顔をしての隣に座る。「見た目だけだから、味は口に合うかわかんねえけど」ううん、とかぶりを振って口に含む。とてもおいしい。本心からそう言うと、シリウスは安堵するように息をついて、細めた目尻にくしゃりとしわを刻んでひどくやわらかに笑った。

「すごいね、これ。こんなのできるなんて知らなかった」
「練習すりゃ簡単だって。ミルク余ってるし、もやってみるか?」
「えっ、やりたい!」

 あの日から今まで感じていた気まずさが嘘みたいに自然に会話をできていることが嬉しくて、ついそう返事をしてしまっていた。もう一杯エスプレッソをカップに落として、シリウスがそれをの前に置く。簡単だから、ハートのつくりかた教えてやるよ、と言うと、にミルクを持たせて、その上から彼女の手を掴んだ。

「途中まで注いで」

 シリウスの手に従って、が腕を傾ける。高い位置から落とされたミルクがエスプレッソと絡まって、キャラメル色の模様を作る。そこまで、と言ったところで、彼が手を下ろさせた。そうしてまだ残っているミルクをスプーンで掬って、ぽつぽつと水玉を浮かべていく。

「あとは竹串で真ん中のところひっぱれば、出来上がり」

 竹串を持ったの手をもう一度掴んで、エスプレッソの上を滑らせた。縁を囲むように並んだ三つの丸がゆっくりと引っ張られて、繋がった綺麗なハートになる。

「完成」

 耳元からシリウスの声がした。気づけば、ふたりの距離はほとんどないぐらいに近かった。の手を掴んでいる体温がとても熱い。部屋にたちこめるエスプレッソの匂いだけが、時間をぼやけさせていた。

「……悪い。俺、ちょっとあからさまだったな」

 ああ、いつもこうだ。触れたくない話題も、口に出すことを躊躇われる言葉も、いつも彼が率先して話してくれた。今だってそう、がうまく話を切り出せないでいる間に、彼はごく自然に流れを作りだしてくれる。ひどいのは彼ではなくてのほうだ。彼が態度に示したものに気付いてあげられなかった。彼の腕に触れて、頬を撫でて、たった一度でも伝えていたら、ここまでずるずると引きずるようなことなんてなかったのだろうか。

「俺、あれからずっと考えてたんだけど」

 掴まれた手を離してくれる様子はない。やけに近い距離で、視線をカップに落としたまま、シリウスはとても落ち着き払った確かな口調で言葉を溢していく。

「俺はちゃんと向き合えてなかったんだと思う。が努力して、傷ついて、それでもがんばってるとこを見てるだけで、俺はなにも踏み出せなかった。との関係を壊すのが、怖くて」

 ほんのわずかに空いた窓から風が吹き抜けて、カーテンと彼と彼女の髪を順番に揺らす。カップの中の模様が揺れて、はシンクロするように自分の心臓も揺れるのを感じた。自分は、いま、きっと、ものすごく変な顔をしていることだろう。胸の裡でぐるぐるに絡まっている感情の名称を捉えようとするのだけれども、嬉しいも幸せも驚きも、どれもいまいちしっくりこない。なにか言わなければと口を開いても、出てくるのは頼りのない吐息ひとつで、まるで声の出し方を忘れてしまっていた。

「だから、ちゃんと俺も踏み出そうと思ったんだ。……8年も片思いして、のこと見てたんだ。正直他の男に、負ける気はしねえし」

 どこか自虐的に笑って、ぐっと雄勁なてのひらに力が込められたのがわかる。ぞくりと粟立った背筋が聞いたことのない悲鳴を上げた。心臓がばかになったみたいにどくどくと喉元で脈打つけれど、彼自身のそれに相殺されているようで彼がその事実に触れることはない。そこではようやく、自分が認識していたよりもずっとずっとシリウスのことが好きだったのだと思い知った。悲しいことなどなにひとつないというのに、どうしようもなく涙が出そうになってしまって、ぐっと息を止める。
 すでにが崖っぷちに立っているとも気づかずに、シリウスは彼女をそこから突き落とそうとしていた。あと、ひと押し。ほんとうに簡単な、やわらかいひと押しだけで、

「……いや、正直そんな自信はねえんだけど、でも、のこと、誰よりも一番好きな自信ならあるんだ」

 シリウスが熱い息を吐く。そうして、最後の一撃を彼女の心臓に叩き込むために、浅く息を吸った。

「俺の、恋人になってくれ」

 ぐらり、眩暈がした。いろんな想いに気道を塞がれて声が出せないは、ぼやけて滲む視界をそっと閉じて何度も首を縦に振る。
 目を閉じたままひっそりと呼吸を繰り返して鼻をすすると、さきほどよりもほんのわずか、てのひらにちからを込めたシリウスが、唇から吐息を漏らすようにしてかすかに笑った。