四輪目



 あの卒業式の日、一番早く登校したのはわたしだった。学校から言われていた登校時間より一時間も早く学校に来て、教室に入ると当然そこには誰もいない。わたしは花沢くんに割り当てられた机の天面を指先でそっと撫でてから、自分の席に座って感情を整理していた。
 本当は、卒業式が終わったら告白しようか、とも考えていたのだ。そうしてふと顔を上げて、教卓に置いてある一輪のコスモスに気がついた。

「一番乗りだったさんが登校した時には、既にあのコスモスがあった。ということは、前日のうちに誰かが飾ったってこと?」
「うーん、そうかもしれないね」

 なんてしらじらしいことだろう。煮え切らない返事をしながらも内心で鼻白む。わたしは、花沢くんの考察が間違っていることを知っていた。

「……でも、わたしはあの日、わたしより早く来てた人がいることを知ってる」
「え?」

 目を丸くさせて、花沢くんは顎に手を当てて考え込む。わたしは花沢くんの次の言葉を待った。
 あれからおよそ六年が経った今でも未練がましくあの頃のすべてを鮮明に思い返してしまう背景には、中途半端に叶った恋愛感情が密やかに今も燃えている。手を伸ばして頼りなく揺れる炎をぎゅっと握ってしまえば良いのだろうけれども、伴う痛みを思えば決して容易いことではない。夢中になれるものを探して手当たり次第に手を出してみたものの、彼以上に巧妙にこのからだの機能を低下させる存在には未だに巡り合わなかった。このまま朽ちていくことを考えると恐ろしくもなるけれど、それでも良いのかもしれないと思うこともある。

「でも、教室には誰もいなかったんでしょう?」
「うん。もしかしたら図書室とか屋上にいて、時間を潰してたのかも。だから、教室にはいなかった」

 風が吹いた。冷たい北風が、わたしたちの間をすり抜けていく。

「卒業式の前の日も、一番遅く帰ったのはわたしだった。先生に用事を言いつけられていたから遅くなったの。だから勿論、花沢くんはわたしより早く帰ったよね」
「……どうだったかな。もう何年も前の話だし、覚えてないよ」
「そうだよね。……でも、わたしはよく覚えてる。一年生か二年生か知らないけど、下級生の子が、花沢くんが帰ったことを確認してから靴箱に手紙を入れてるのを見たから覚えてる」

 わたしは一度目を瞑って息を吸うと、言葉を続けた。

「その手紙の端が、靴箱の扉からはみ出していたことまで、よく覚えてるの」

 花沢くんは表情を変えずに、わたしの目を真剣な瞳で見ている。それでも、花は喉の奥から押し寄せてこなかった。

「卒業式の日の朝、わたしは花沢くんの靴箱を見たけど手紙は挟まってなかった。……きっと、わたしより早く登校してあのコスモスを飾った誰かが、その手紙を抜き取ったの」

 目を伏せた花沢くんがぐっと唇を噛んだ。今まで見たことがないくらいに真青な顔をして押し黙っている。見つめているだけだというのに花沢くんの息の根は今にも止まりそうだ。視線で人は殺せるか。人体実験とばかりに花沢くんの伏せられた瞳をじっと見つめていると体内に蔓延るありとあらゆる感情の内訳は怒りよりも恨みよりも愛しさが大部分を占めていることに気付いてしまった。視線で殺人を犯すことは難しく、わたしはわたし自身の呼吸困難を把握した。

「どうして、抜き取る必要があったんだろう。コスモスを飾った犯人にとって、花沢くん宛ての手紙なんてどうでもいいはずなのに」

 緊張で耳鳴りがして、自分の鼓動が早くなるのがよく分かる。吐く息が震えた。膝に力を込めて立ち上がれば、酒を飲んでもいないのに足元がひどく覚束ない。わたしは未だ肌寒い空気に冷えていた手のひらをぎゅっと握り締めた。

「でも、一人だけいるよね、その手紙を受け取る資格のある人が」

 そう、あの手紙は、決して見知らぬ誰かに持ち去られたりなんかしていない。きちんと行くべきところに送り届けられたはずだ。

「わたしは靴箱を開けて花沢くんの外履きがあるかは確かめなかったから、あの時もう既に登校してたのか、それともまだ来てなかったのかは分からないけど」

 花沢くんの靴箱から手紙を抜き取って、わたしが花吐き病に感染する原因となったあのコスモスを飾った犯人は、何者なのか。

「でもわたしは、花沢くんとすれ違うたび、かすかにコスモスの香りがすることに気づいてたよ」

 それはきっと、今目の前にいる彼。花沢勇作だ。