五輪目



 花沢くんは静かに息を吐くと、膝の上のファイルを自分の脇に置いた。そして足を前に投げ出す。

「……コスモスは、そんなに匂いの強い花ではないよ」
「そうだね、意識しないと分からないかも」

 花沢くんはわたしのことを一瞥してから、諦めたように項垂れた。

「どうして、気づいたの」

 喉の奥を、花が塞ぐ。

「わたしが、花を吐くたびに想っているのが、花沢くんだから」

 ずっと、花沢くんのことが好きだった。花沢くんがわたしのそばを通るたび、友達と会話していても花沢くんのことに意識を集中させていた。そうしていれば自然と、花沢くんが纏う花の香りにも気づいた。そして、秋になってそれがコスモスの香りだと知ったのだ。すべて、わたしが花沢くんに想いを寄せていたから。
 花沢くんはわたしが吐き出したフリージアを躊躇することなく手に取ると、それをじっと見つめた。

「学校に上がる前、両親と買い物に出かけて花吐き病の女の人に会ったんだ。その人は街の真ん中でカスミソウを吐き出した。幼すぎて何も知らなかった僕にとっては不思議でしかなかったんだろうね、その花を触ってしまったんだ」

 罹患者の吐き出した花を触れると、病は感染してしまう。そのカスミソウを触れたということは、花沢くんもこの忌々しい花吐き病の罹患者になったということだ。それは、あの日コスモスを飾った犯人が自分であると自白しているのと同じことだった。

「親は心配してくれたんだけど、僕はずっと発症しないままだった。でも高校生になってから好きな人ができて、片想いするようになったら花を吐いた。それ以来、何年もこの病気に悩まされている」

 懺悔するように言葉を紡ぐ花沢くんの顔を、わたしは見ることができないでいた。なんとなく、花沢くんが手にしているピンク色の花の辺りに視線を向けてみる。

「おかしくなりそうだったんだ。慣れたとはいっても常に嘔吐感に纏わりつかれるし、食欲もなくなった。まともな生活なんて送れるはずもなくて、気が狂いそうだったんだ。こんな病気をよすがにして好きな人との繋がりを実感するだなんて虚しいにも程がある。そんなことが三年間続いたけど、卒業して好きな人のこと忘れることができたら、この病気も軽くなるのかと思って。だから、あんな馬鹿なことをしてしまった」

 花沢くんはわたしのことを見ると、悲しそうに微笑んだ。

「でもまさか、萩谷さんがあの花に触れてしまうとは思わなかった。本当はみんなが帰った後に自分で片付けようと思ってたんだ。それなのに君を巻き込んでしまった。本当にごめん」

 そこで花沢くんは急に端正な顔を歪めた。どうしたのだろうか、と心配しているうちに彼の口からどろりと花が零れる。それはコスモスではなく、白銀の百合だった。

「百合……?」

 ふと、さっきの資料に目を向ける。
 確か、この花吐き病が完治した時には。

「……高校を卒業すれば、片想いの相手に会うこともなくなって忘れられると思った。でも、その人に申し訳ないことをしてしまったことが気がかりで、忘れられなかったよ。大学生になっても卒業して職に就いても、花吐き病は治らなかった。寧ろ悪化するだけだったんだ。このまま死ぬんじゃないかと思うと、怖くて、やるせなかった。だから、この間の結婚式でその人に会った時、何とかして好きになってもらおうと思ったんだ。それで、呼び止めた」

『ねえ、花の甘い香りがしない?』

 あの日の、花沢くんの言葉が脳裏に蘇った。まさか、と顔が引きつる。

「ずっと、君が好きだった。それが、叶った」

 片想いしていた相手と両想いになった時、罹患者は白銀の百合を吐き出して、この病は完治する。花沢くんはさっき自分が吐き出した百合を拾い上げた。わたしは困惑する。花沢くんの言葉が信じられなかった。わたしをからかっているんじゃないかと思ったけれども、そんな悪趣味な揶揄いをするような人ではないということも、わたしはよく知っていた。

「さっき、花を吐くたびに想っているのが僕だって言ってくれたでしょ?萩谷さんが誰のこと想って花を吐いてるのか、ずっと気になってて、その度に僕も花を吐いてたんだ。でもまさかその相手が僕だったなんて、考えもしなかったな……。気付いてたら、こんなに苦しまないで済んだのに」

 夢を見ているのではないかと疑った。時間が止まって、咽がからからに乾いた。なにを返すこともできずにぽかんと呆けていると、花沢くんが満足気な瞳でわたしを見て少し笑う。その瞬間、急に強い嘔吐感に襲われた。咄嗟に花沢くんがわたしの身体を支えてくれる。どうしてこんなに苦しいの。目に涙を滲ませながら、わたしも花を吐き出した。白銀の百合だ。それを見て花沢くんが微笑む。

「良かった、君の病気が治って」

 わたしはその花を拾い上げて、整理のつかない頭を抱えた。胸の裡でぐるぐるに絡まっている感情の名称を捉えようとするのだけれど、嬉しいも幸せも驚きもどれもいまいちしっくりこない。なにか言わなければと口を開くのだけれど出てくるのは頼りのない吐息ひとつで、わたしは声の出し方を忘れてしまっていた。ただ、わたしはわたしが認識していたよりもずっと、このひとのことが好きだったのだと思い知った。悲しいことなどなにひとつないと言うのに涙が出てしまうのだ。

「……花沢くんのせいで発病したのに」
「ごめんね、だから責任をもって治したでしょう?」

 そんなの変だよ、と言い返すわたしに、花沢くんは申し訳なさそうに笑った。人前で涕涙してしまったことも情けなく声が震えてしまったことも恥ずかしくて、膝の上で両手を握りしめて、隣の花沢くんの顔を見ることができずにわたしはただ俯いていた。両目のふちを水滴が泳ぐ。わたしはずっと花沢くんを見ていて、わたしはずっと知りたかった。花沢くんにとっての嬉しいことや悲しいことはなんなのか、休みの日はなにをしているの、どんな音楽を聴くの、なんでもいいから知りたかった。わたしは欲張りではないけれど、これを恋愛だと認めるくらいには強欲だ。

「僕だって、萩谷さんのせいでどれだけ辛かったか」
「……それ、わたしだけが悪いわけじゃないよね。お互い様でしょ?」

 馬鹿らしくなって、二人で声を上げて笑った。彼の言う通り、もっと早く気づいていれば良かったのに。ふふふ、といつまでも笑うわたしを見て、花沢くんが嫋やかに目を細めた。目の前で彼の頬がほんのりと染まる。もう長いこと花沢くんのことばかりを見つめていたのに初めて知ることばかりで、わたしは花沢くんのことなんかなにも知らなかったのだと思い知る。わたしが見ていた花沢くんはもっと冷静で、寡黙で。だけど、今日の花沢くんのほうがずっとずっと魅力的だ。

萩谷ゆかりさん、僕と付き合ってください」

 花沢くんがわたしの下の名前を呼ぶだけで、わたしはわたしをゆかりと名付けた両親に多大な感謝を示さずにはいられない。
 どうしてこんなに簡単にこれまでの正常なわたしを失ってしまうのだろうか、恋愛というものは摩訶不思議だ。目の前にいるのは、わたしをわたしでなくして、それでもわたしを好きというひとだ。怒りよりも恨みよりも圧倒的に愛しさが勝る。選ぶべき答えはひとつだけだった。
 それでも、なんて馬鹿なことをしてくれたんだろうという思いを込めて花沢くんの肩をグーで軽く殴ってみる。それでも、嫌いになることはないだろう。何年か経てば、笑い話になるだろう。もしもこの先、子どもが産まれた時にはこう話してあげよう。彼のせいで苦しんで、彼のおかげで治ったんだよ、と。わたしは差し出された手を取って彼に微笑んだ。

「……もちろん、喜んで」

 その返答に喜色を顕わにする花沢くんの表情があまりに煌めかしくて眩暈がした。どうやら今日という日の終わりはまだまだ程遠く、飛散してしまったわたしの心臓が元通りになるのはいつのことになるのやら。いろんな想いに気道を塞がれて声が出せなくなったわたしは何度も首を縦に振る。花沢くんは満足気に笑った。
 吐き出された花が枯れていった。鼻腔を微かに擽っていた甘やかな香りも霧散していく。もうわたしたちが、花を吐くことはない。





コスモス「乙女の真心」「調和」「謙虚」「純潔」
フリージア「あどけなさ」「親愛の情」「友情」「感謝」

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