膨らみに眩した銀糸



 家に帰ると、二人掛けのソファに座ったはじめくんがテレビを見ていた。
 いつもより丁寧にドアを閉めて、鍵を置いた後、どうだった?と言いたげにわたしを追う彼の視線をきちんと躱すことができただろうか。
 さんざんっぱら吸わされた幸福とは違ったこの部屋の、良くも悪くもずっと同じリアルさにわたしは深い深呼吸をしていた。
 お祝いにわたしと彼から、と持っていった染付の器を二人は純粋に、そして吸収するように喜んでくれたことをわたしは彼に報告する。
 直接会ったことはないはじめくんについて、忌憚のない意見(褒め言葉)を述べた友人の指に輝く指輪から目を逸らしたと思われないように、わたしは明るい木の色で作られたテーブルの上に並んだ彼女の指先をじっと、見つめていた。
 健康で、比較的まっとうで、ありふれた人生を送っているわたしと、わたしの友人の違いはただひとつ入籍をして新居を構えたことである。このご時世にちゃんとした一軒家を建てるなんて生半可な気持ちではできない結婚だとわたしは思ったりしたものだけれど、存外地域や育った環境によってはそうでもなかったりするらしい。
 「男ってわからないねえ」とかつて膝を付き合わせて喫茶店で何時間も話し倒した友人が「まあまだよくわからないけど」結婚をした。悪くないとも楽しいとも言わず、まだよくわからないのに結婚をすることが、多分、一番衝撃的だった。わからなくても預けてみよう、もしくは預けて貰おう、と彼女は思ったのだからそれはとても勇気のある決断だ。わたしはきっと、預けようとも思わず、預けられたいとも思わず、ならば共に生きたいとも思っていないのかもしれず、この歳になっても未だ排他的なみずからの思考にぞっとした。
 今日友人の家へ行くことを知って、わざわざわたしのところまで来てくれた心優しい彼氏が近づいてくるのも、同じくぞっとするほどだった。

「どうだった」
「ああ、喜んでくれてた」
「……良かったな」
「変わってなくて、ほっとした」
「何が?」

 はじめくんは演技派だ、と思う反面、視線が酷く無作法に動く瞬間があって、その瞬間に彼が違うことに気を取られているのだと気付く。ちいさなほつれが大きな穴に広がるようにして、わたしはいつもはじめくんの優しさからなる嘘や気使いを見破ってきた。彼は何を思い悩むのだろう、と結婚式の招待状を手に帰ってきたわたしを見た瞳からずっとずっと考えて、考え尽した。知恵熱が出るのではというほどに考え尽した挙句、それでも彼のしんとした瞳は何事をも語ることなく日々が過ぎる。
 わたしが友人の新居へ行くことを告げた時に、彼が俺からもお祝いに何か、と言ったとき、断る理由が無くなっている事実に喉が締まるようだった。はじめくんと二人で選んだ、と告げると、友人夫婦は一度顔を見合わせて、「きゃあ」か「ひゃあ」と友人は声を上げる。結婚はいいものよ、と言われるよりもずっと苦しいとは言えないまま、わたしは笑顔から変えそびれた表情のまま、口許を僅かに引き攣らせて「えへへ」と笑った。

「なんか、押し付けてくる人、いるじゃん」
「……あー」
「結婚はいいとか、急に、した途端」
「いるな」
「なんか、変わっちゃってたら怖かったけど、そういう子じゃないし」
「楽しかった?」

 うがいをして水を吐き出した後、彼の問いかけに言葉が詰まり、返答よりも先にカランという乾いたグラスの音だけが部屋に響く。彼はテレビを消してしまったのだと遅まきに理解した後に、楽しかった、などという見え透いた嘘をつく必要性のなさにまた、唇が震えた。
 どうしてすぐに「楽しかったよ」と笑って答えてあげることができなかったのだろう。もしもわたしが「楽しかった、羨ましいなぁ」などと明るく、何も考えずに答えられていたら、目の前の、こんな彼の表情を見ることはなかったはずだ。
 カラン、カラン、グラスの音がやけに耳に残って、いつもと同じヒールのはずなのに足はひどく浮腫んでいて、立っているのがやけに身体に堪えていた。
 幸福の縮図に収まったつもりではないはずの友人をその型に押し付けた浅はかな自分が嫌だった。正しく、そう、はじめくんに告げることができたなら、彼の眉根に寄せられた皺のようなものが消えるのか。分からない。

「ちょっと寂しいけどね、いつかはするって言ってたし」
「仲良かったもんな」
「中学からずっと」
「いいな、そういうの、なんか」
「そう?なってみると寂しい、いや、どうなんだろ」

 薄い自問自答をしたまま、キッチンに身体を預けると、はじめくんのピアスが目に入った。
 高校を卒業してから空けたというそれ。まん丸くて、銀色の、一番シンプルなピアスがわたしは好きだな、と初めて会った時にも思ったような気がする。一番星よりも大きくて、月よりも小さい主張が彼に寄り添っているようで、しっくりと来ている。
 多分、こんな説明じゃ分かってもらえないから「似合ってますね」なんてありふれた世辞を言ったのだろう。目に入ったものに心に抱いた感情を、きちんと言葉にしないと落ち着かないような子どもだったから、その頃のわたしは。
 彼はずっとずっと大人であったから、耳朶を見ることも触れることもなく、ただ「ありがとう」と絵に描いたような笑みをこちらへ向けたのだろう。
 今も、昔も変わらず、きちんと生きることに長けた人であるから、少しばかり優しすぎるきらいはあるものの。否、生きるには優しすぎるな、と思うことが両手に余るほどあったことを思い出した後で、はじめくんがやっと口を開いた。
 一度唇を舐めて言葉を探った後、視線をわたしより上や下、色々と彷徨わせて、「したい?」と言った。

「……わたしは、まだ、いいかな」
「そっか」
「正直、周りが結婚して、結婚したいって思われたり、聞かれるのが一番困る」
「……なんで」
「だって、別にしたくないもん」
「したくない?俺と」

 あまりにもストレートに問いかけた彼の声も、表情も、理不尽さに溢れていて、わたしは違うのだと、両手を振りたいほどの気持ちになった。
 はじめくんに問題があるわけでは決してない。結婚に対しての不安やリスクの話をしているのではなく、ただわたしの内面の話をしているだけなのだ。
 例えば、毎日働くことだとか、食事を摂ることだとか、趣味があることだとか、どれを生きることとイコールにするのか、わたしは知らないけれど、まだ自信がない。はじめくんがいなくても、きちんとひとりで立ってこの地球で生きていけると断言する自信が一切合切存在しないのだ。
 こんなことを言ったら、俺がいなくても今までやってただろ、とはじめくんが言い切るのが目に見えているけれど、知る前と知った後は全てが違うことも、彼は知っているのではないだろうか。知ってしまった後に、知らないふりをしたり、なかったことにすることは容易いのかもしれないけれど、知らない時には一生戻ることはできないのだ。
 けれど、恋に落ちた時や、彼の告白を受けた時、何も考えてなかった。よくわからないまま、好きになり、よくわからないまま、付き合った。同じようによくわからないまま、結婚できたらいいのかもしれないけれど、その一線だけは、足をぴたりと止めて、うんうん考えてしまう。

「俺の両親のこと考えてんの」
「それはー……ないこともない、けど」
「俺はしたいけどな、結婚」
「……へえ、」
「待って、すげえヤだ、今の。撤回」

 「なんでだろ」、はじめくんがちいさくかぶりを振ってから「なんで嘘っぽくなったんかな」と、嘘っぽさのない声で呟くから、さっきの言葉は殊更に嘘っぽく聞こえた。けれども、きちんと先程の言葉が、心の中であたためているより声に出すとずっと嘘くさくなってしまう事を分かってくれて、わたしは安堵を覚える。もしも気付くことなくひたすらに結婚についてはじめくんが喋りだしたら、あり得ないとは思いながらも、処置無しとしか言えない光景だ。

「言っても、嘘っぽくなくなる日が来るんだろうね」
「そ、か」
「そうだよ。そしたら、結婚しよう」
「待て待て、今のは俺が言うやつだろ」
「えー、だってさっきの嘘っぽかったもん」
蘭子のは嘘っぽくなかったじゃんか」

 「じゃあいつか結婚するんじゃない」「へえ」はじめくんが背中を向けてテレビの方へ歩いていく、いつもと同じ背中に向かってわたしは歩き出した。はじめくんの逞しい腰に、未だ衰えることなく綺麗に鍛え上げられたお腹に腕を回して、背骨に頬を押し付ける。
 背骨に頬を押し付けると、少し痛くて、はじめくんはわたしの手を取って、そっと開くと、自分の手を押し付けてきた。目を閉じたまま、背骨の形や湿度を感じながら、「現状維持って言葉、結構好き」とそっと呟いてみると、自分で笑ってしまうほど嘘っぽく響いた。同じように「結婚もしたくない」と呟くと、それはきちんとした質量で彼の背骨にも染みていくのが分かる。
 はじめくんがやっと背中を少し動かした後で「俺は現状維持ってあんまり好きじゃない」と言って、部屋の空気がまたきちんとその言葉ぶん震えた。
 どうしてわたしたちは似ていないのに、こんなに一緒にいることができるのだろう、一緒にいられないことが考えられなくなってしまったのだろう。
 こんな言葉も、自分の声にしたらきっと薄くなって嘘みたいになったりして、心細くなってしまうから、わたしは「だろうね」と彼の先程の言葉にそう答える代わりにゆるく上がった口角を隠す必要性のなさに安堵したまま、彼の背中に頬ずりをする。
 やがて、はじめくんが「真っ暗だな」と、多分、カーテンから透ける闇を見た声で、呟いた。