紛れもない朝



 瞼を開ける前から、瞼に刺すような視線を感じていて、わたしは寝返りをうった後で昼前特有の生ぬるい日差しを視界に入れた。
 カーテン越しでも見えるぬるく、ほの温かい光がじんわりと目に、身体に広がっていく。確か、日光に当たると幸福を感じるセロトニンが分泌されるから、日には当たった方がいい、と小耳に挟んだような挟まなかったような。
 寝起きは悪い方ではなく、今度は背中に向かって突き刺さる視線から少しだけ身体をよじったあとで、見慣れたカーテンの柄を眺めた。
 条くんに声をかけようか、かけまいか、と迷うよりも先に「おはよぉ」と間延びした声が聞こえる。意地の悪い笑顔なのは見ないでも分かるほどで、後ろから簡単に抱きすくめられたわたしは鼓膜に直接注ぎ込まれたようなその声にくらくらした。寝起きにその声は、見えないけれど笑顔は、反則じゃないだろうか、なんて調子に乗りそうだから絶対言いたくないけれど。
 しっかりと伸ばされている彼の腕は日々変わらず筋肉がごつくて擦り傷やら瘡蓋でざらついていて、後ろから抱きしめられてつい、彼の腕を撫でてしまう。自分の腕とはまったく違う触り心地、言ってしまえばわたしの腕の方がずっとすべすべだけれども、これは彼の生きている証そのものだから、どんな傷だって尊いものに思える。大型の犬か狼か何かを撫でているような不思議な気持ちで一心に腕を撫でた。

「ねぇー……朝から誘ってんのぉ?」
「……おじさんくさいこと言わないでよ」
「えぇ、オレが悪いの?確かに老けてるってよく言われるけどぉ」
「確かに、未成年に見えないよ」
「でも、まあ、もうすぐ成人だから」

 彼の腕をなめすようにすうっと撫でた後に、自分の倍はありそうな大きさのてのひらを通り過ぎて、同じように適度に日焼けした雄勁な指先を、自分の指先で掴むような形でスライドさせた。触れて、滑らせた彼の中指の形が芸術のように美しく、爪の形もすべてが調和のとれた状態だな、と考える。まるで偽物か、夢か、という気持ちで黙々と、中指の後は人差し指、次に薬指、親指を撫でようとした時に、身体がぐっと引き倒された。条くんの髪がうなじにさらりとかかって、小さく声が漏れる、くすぐったいような愉快な気持ちで。
 明るく、でも柔らかい日差しがベッドルームにじわりと広がっているのをわたしは彼に後ろから抱きしめられたまま、見ていた。カーテンは揺れず、静かにただ太陽の光を受け止め続けている。
 わたしはといえば彼の悪戯っぽい微笑みをまた耳元で受け止めて、先程一心に触れていた腕のことを考えて、寝ぼけていたのかもしれない、と思った。
 どうしてかと言えば、朝である、朝ごはんも食べていない、多分寝ぼけているわたしに向かって呼ぶ名前にしては彼の声は甘すぎる。びしゃびしゃにメープルシロップをかけたフレンチトーストよりも、甘く、身体に残りそうな声が繰り返し、わたしを呼ぶ。思い出したように時たまわたしの耳裏やらうなじやらに鼻先を寄せて音を立てずに吸い付くようにキスをして、また、名前が聞こえる。

「なに、してるの」
「うーん、セクハラ」
「うっそ、……開き直った」
「先に触ったの、ちとせでしょお」
「だって条くんの腕が気持ちよかったし」
ちとせの腕も気持ちいーよ、腕だけじゃないけど」
「自分のはダメ」
「あー……分かるかもぉ」

 すん、とわたしの首筋に顔を埋めた彼が「ちとせの方が、ずっといい匂いする」と言ったあとでまたちょっと笑って、その息が耳にかかってソワソワした。同じシャンプーなのにね、とわたしは何でもないように返したけれど、本当に何でもないわけではない、と多分気付かれているだろう。
 そもそも先に触った、というか、抱きしめてきたのは条くんだったけれど、今更反論する気も起きない。ここまで来たらどちらが先だったかなんて些末な問題に過ぎず、わたしは今、朝っぱらから彼の腕の中にいることだけが事実だった。
 冷え冷えとした足先のことを忘れるほど、寝起きのせいかやけにぬくい身体の温度がじわじわと溶けて、彼に奪われて、そして同じようにこちらにも移されていく。暑くも寒くもない、ただ数少ない二人の体温がぼんやりと境界線のなくなった、混じり合ったような感覚。
 条くんの首筋に鼻先を当てることは出来ないけれど、わたしと条くんの纏う香りは同じものを使って眠っても、少し違う。だから、彼の髪の毛がわたしの耳の後ろや、首の後ろを掠めると、ちゃんと条くんだけの香りが分かるのだ。
 出会ってから鼻が良くなったような気がするのは、間違いなく彼のせいだろう。わたしの腰をがっちりと抑えている腕を両手で引きはがそうと触れると腕は思いのほか簡単に外れた。自分の頭を枕の位置に戻して、条くんと距離を取ってからやっと寝返りを打つ。少し前まで三つ編みが出来るほどまでに伸ばしていた後ろ髪は刈り上げてすっきり短くなった。それでもまだ少しばかり重たい前髪が目にかかったままの条くんが、陽の光のせいか、ひどく眩しそうに目を細めてこちらを見る。

「おはよ」
「おはよう。オレ、さっきも言ったけど」
「言い忘れてたから」
「久しぶりだねぇ、なんか、朝ゆっくりすんの」
「そうだね、久しぶりだ」
「……な」

 向かい合うと、すぐ彼の瞳に映る自分に耐えられなくなって、ベッドに仰向けに寝転がる。条くんは変わらずわたしの方を向いたまま、じっとこちらを見つめて、それからゆっくりと同じように仰向けになった。それから、シーツの海を探るようにして、わたしの手を取って、指先を絡ませるように手を繋ぐ。季節に似合わず、お互いの汗ばんだてのひらをくっつけて、ぎゅっと握りあうと、昼間の光よりずっとあたたかった。

「たまにはこういうのもいいね」
「オレはいつでもこういうことしたいけどなぁ」
「……うん」
「え、なぁに?」
「条くん、すぐそういう照れくさいこという」
「別に照れるようなことじゃないでしょ」

 条くんがそう断言したから、わたしはそれだけで単純に安心する。日々、変わらない条くんの考え方とか、存在みたいなものの欠片を確認すると、やけに心が満たされるのだ。
 カーテンの隙間から入ってくる淡い黄色の光の満ちたこの部屋と同じくらい、自分は満たされきっている。
 手を握り合ってすぐ、わたしの親指の付け根を自分の親指で何度も何度も条くんが撫でだした。わたしが先程触ったのより、力はちょっとだけ強くて、でも本人にとってはきっと一番優しいというような力加減が気持ちいい。何回か撫でた後で、条くんが「すべすべだ」と言って、その声だけでも彼が笑っているのが分かった。「条くんには負けるよ」と答えると、彼がちいさく鼻を鳴らす。彼の親指の指紋が消えてしまうのではないかと心配になるほど、何度も付け根を撫でた後で「ねむ」と小さく条くんが呟いた。

「二度寝ですか」
「しないよぉ」
「起きる?」
「起きる」

 繋いだ手を離すこともないまま、彼はゆっくり起き上がって、わたしは繋いだままではうまく起き上がれず、彼の手を離した。汗ばんだ片手が外気に触れて、やけにすうすうとしている。
 二人で、滑稽なほどしっかりと起き上がって、顔を見合わせた後で「何食べよう」とわたしが彼に問いかけると「すぐ飯の話」と呆れた顔の条くんが大きく伸びをした。
 わたしはベッドから降りて、カーテンを思い切り開ける。
 たくさんの光が部屋に差し込む眩しさに目を細めながら、今日は和食が食べたいような気がする、なんて考えた。