大学進学と同時に一人暮らしを始めた。父親の知り合いがちょうどこの界隈で不動産業を営んでいるおかげで、学生が一人で住むにしてはあまりに広々とした2DKで快適に暮らしている。駅へと続く道に街頭の少ない箇所があることと、近くにコンビニがないことを除けば立地的にも不便はない。三階建てでエレベーターが備わっていないせいで疲れているときは三階の部屋まで上がることを億劫に思うこともあるけれど、運動不足を訴えるからだのためにはちょうど良いと我慢している。最初は重たく感じた玄関の扉も、二年が経つ頃にもなるとさすがに慣れた。
加えてこの家は大学の徒歩圏内にあるせいで人がよく集まる。なかでも、焚石矢はほとんどわたしの家に入り浸りだ。
「もー離れてよ。鬱陶しい」
めいっぱい不機嫌を滲ませた声で言うけれども矢は返事をしなかった。返事をしないで無視を決めこんでいるのならまだしも、わたしへの反抗としかとれない態度で矢は両腕にちからを込めた。昼食を終えたばかりのお腹を矢の逞しい腕がぎちぎちと締めつけて苦しい。矢が額をわたしの右肩に乗せているせいで耳朶の下に矢の髪の毛がちくちくと刺さってくすぐったい。溜息にも似た吐息が鼻から抜けた。
大学の後期日程を全て終え、わたしは二週間の間実家へ帰省していた。この家へ戻って来たのは昨晩のことで、長時間も電車に乗っていたせいで疲れていたわたしは「帰ってきたらすぐに連絡をしろ」という矢の言いつけを守らずに、食事を摂ることもお風呂に入ることも着替えることも放棄して実家を出たときの状態のまま泥のように眠ってしまった。
そして今日だ。お昼頃にやってきた矢は寝起きのわたしが玄関の扉を開けるなりわたしに飛びついて、以来ずっとわたしにぺったりとくっついている。随分と図体のおおきなひっつき虫だ。
矢は普段から自由奔放かつ傍若無人に振舞っているけれども今日は殊更にひどい。いくら離れろと言っても態度を改めない矢をシャワーを浴びるために引っぺがすことには相当苦労した。シャワーを浴びて部屋に戻ると、ベッドのうえでごろごろしていた矢は飼い主が視界に入った犬のように飛び起きて再びわたしにぺったりとくっついた。腹が減った。そんなことを言いながら。
矢はずっとわたしにくっついていた。パスタを茹でているときも、キャリーバックの中身を片付けているときも、カルボナーラを食しているときも。矢がわたしを逃さないせいでわたしは矢の膝の上で食事を摂るはめになって、矢が無理な体勢で食事をするせいでカルボナーラのソースが右肩にぼたぼたと落ちてきて相当気分が悪かった。挙句、矢は全く悪びれる様子なくわたしの肌に零したソースを舌で舐めとるものだからそのたびに背筋が粟立った。用済みとなった食器を洗っている間も勿論矢はわたしにぺったりとくっついていた。時折思い出したように首に歯を立てるものだから今頃わたしの首は矢の歯型だらけになっていることだろう。そのたびにやめてと言うのだけれども矢はちっとも悪びれない。悪びれないどころか、増長する。ヂリ、と肩に微かな違和感が走る。スルメイカを齧るかのような素振りで、矢がわたしの肌を食んでいるのだった。
「矢」
「なんだ」
「寂しかったの?」
「寂しくない」
口ではそんなことを言いながら矢は決してわたしを離そうとはしない。ずっとくっつき虫を続けている。寂しくなかったと言うのならこの態度はいったい何なのだと問い質してやりたい。180cm近い図体のおおきな男がぺたりとくっついているせいで行動範囲は限られて、疲れているからだを満足に休ませることもできやしない。矢の膝の上に乗せられて、テレビのリモコンを片手に持ってレコーダーに溜まった録画番組のCMをカットをするくらいのことしかできない。中途半端に開いたカーテンから見える空は快晴だ。こんなにも良い天気の休日に、締め切った部屋でおおきなひっつき虫に取りつかれて、わたしはいったいなにをしているのだろうか。
「寂しかったなら寂しかったって言ってよ」
「別にお前がいないくらいどうということはない」
「どうってことないなら離れてよ」
威勢良く否定の言葉を吐いていた矢は、けれどそれきり黙ってしまった。このひとはどうしてこうも雄弁なのだろうか。
普段からわたしの家に入り浸っていた矢と二週間も顔を合わせないというのは、彼がわたしの恋人となって以来はじめてのことだった。出発の前夜、二週間くらいどうということはないと彼は言った。なんの不都合もないし、なんならもっとゆっくりしてくれば良いとも言った。わたしは彼らしい言い分を微塵も疑わずに帰省して、住み慣れた実家でだらだらと休みを送った。退屈な実家で特別な話題ができるわけもなく、矢からの連絡もなく、ほとんど連絡はしなかった。役目を放棄したかのような携帯電話の画面を眺めながら、こんなものかと思っていた。それでも良かった。彼はそういうひとだと思っていた。
けれど、それはどうやらわたしの勝手な思い込みだったようだ。自由奔放で傍若無人、身勝手な振舞いの目立つ彼にも寂寞という人間らしい感情は備わっているらしい。そうしてそれは、こんなにも幼く愛らしい仕草で露呈する。
こんなにも好かれているだなんて、知らなかった。
「灯莉」
矢がわたしを呼ぶ。それがあまりにも仰々しい声音だったものだから、わたしは僅かばかり身構えた。
「オレの借りている家がもうすぐ契約更新だ」
「うん」
「丁度良いから、一緒に暮らそう」
もっと他に言い様はないものか。呆れてしまうけれども、これこそがこのひとの精一杯の表現らしかった。
矢にしてみれば「丁度良い」提案は、わたしにとってもちょうど良いものかもしれない。学生が一人で住むにしてはあまりに広々とした2DKだ。ひっつき虫がいるのなら夜道も恐ろしいものではなくなるし、夜中にどうしてもアイスが食べたくなったときに駅の近くにあるコンビニに赴くことだって容易い。疲れ果てて帰宅した夜に彼の言いつけを破ってしまうこともなさそうだ。
「別にいいけどさあ。矢、ちゃんと家事やってくれんの」
「なめるな」
さっきからことあるごとにわたしの肩を舐めまわしていたのはきみのほうでしょう。
めいっぱいの厭味を唇ですり潰して、おおきなひっつき虫にキスをした。