雨の日はうまく歩けない



 夕方、突然降り出した雨は豪雨に変わった。
 一人暮らしを始めてから、季節や天気の移り変わりに疎くなったような気がする。その違和感すらも、人から「気温と服装が合ってない」と指摘されてから気がつく。もちろん傘は持っていなかったけれど、きっと一時間もすれば止むだろうというのがわたしの予想だった。予想に反して激しくなるばかりの雨をぼうっと見ていると、男性にしてはやや高い、優しい声で名前を呼ばれた。蘇枋さんは湿気で跳ねる髪の毛を抑えながら、すごい雨、と半笑いでわたしに同意を求めるようにこちらを見ている。

「お疲れ様です」
「お疲れ様、帰り?早いね」
「や、昨日からいるので、遅すぎて逆に早いパターンですね」
「でたよ」

 大変だね、と笑う顔は、本当に女の子と見間違うほど美しいなあと思う。可愛いと美しいの違いは、その中に儚さや恐怖を含んでいるか否かだ。だから蘇枋さんには、美しいという言葉が一番しっくりくる。こうして実際に顔を合わせてもなお、本当に存在しているのかどうか不安になるのだから。
 どうせ家に帰るだけだからと、シャワーを浴びた後ろくに化粧もせず、ロッカーに置きっぱなしになっていたくしゃくしゃのシャツワンピースを、ただなんとなく着た数十分前の自分を呪いたくなる。それは急に恥ずかしさとなって現れたので、せめて、とワンピースのシワを伸ばしたり前髪で顔を隠したりしていると、大丈夫?と突然顔を覗き込まれた。

「うおわっ、」
「はは、すごい声」
「……すみません、おどろいて」
「急に黙るから、具合悪いのかと思った」
「全然です、元気です、はい、」
「元気ですって、徹夜したくせに」
「そう、ですけど」

 やっぱり顔色悪くない?と思っていたより大きな手がわたしの前髪を掠めて、おでこにぴったりとくっついた。蘇枋さんのてのひらはひんやりと冷たくて、わたしの熱くなった体温と混ざり合う。

「んー、あつい気がする」
「……は、い」
「もしかして照れてる?」
「そりゃあもう」
「ふふ、かわいいね、」
「……免疫ないだけですから」

 おでこにくっついていた手は、そのまま髪を撫ぜて、冷たいような、ぬるいような感覚を残したまま離れていく。貴方の方がよっぽどかわいいですよ、と言おうと思ってやめた。蘇枋さんに可愛いなんて言葉、似合わないから。
 わたしはどんどん熱くなる顔を前髪で必死に隠す。隠しきれないなんて分かっていたけれど、それでもできるだけ隠しておきたかった。
 雨が早く止めばいい、でも、このまま止まないでいてほしい。色んな感情がぐるぐると、思考能力のほとんどが停止している徹夜明けの脳内で回っている。

「なんか困らせちゃった」
「困っては、ないです」
「じゃあ一緒に帰ろう」
「……それは困ります」
「心配なんだけど、」

 冗談で言っていないことくらい、数回仕事を一緒にしただけのわたしにも分かる。この人は、やっぱり誰にでも優しい。誰にでも、全部平等に優しい。だからこそ、特別との境は難しい。
 さっきまでどんよりと暗かった空が少しずつ明るくなっていって、雨も小雨ほどに弱くなってきた。帰らなきゃ、と駅の方を向いたわたしの腕を驚くほど自然に蘇枋さんの手が掴んで、うまく振り向けなかったわたしはそのままバランスを崩してしまう。

「……わたしみたいなのに、こんなことしちゃだめですよ」
「どうして?」
「勘違いと誤解を生みます」
「勘違いしてくれていいんだけど、」
「はい?」

 胸に飛び込むように倒れこんだわたしの肩に自分の着ていたジャケットをかける。蘇枋さんが良く着ている黒のジャケットだ。こんな格好じゃ、風邪ひいちゃうよ。耳元で紡がれる言葉に、わたしの顔はさらに熱くなる。

「今日は諦めるから、それ着て帰って。次は絶対一緒に帰ってもらうから」

 タイミングよくタクシーが横付けされる。バイバイ、と悪戯に笑う顔を見て、やっぱり蘇枋さんに可愛いなんて言葉は似合わなくて、わたしはもうとっくに堕ちていたのだと気づいた。