精彩を図る物差し



 積まれた本の裏にあるバーコードの意味は知っていたけれど、こうやって足を運ぶのは初めてだった。
 円形にかたち作られたその図書館の外装は真っ青で、まるでプラネタリウムのよう。その円を縁取るように設えられたぐるりとしたテーブル、そして一脚の椅子に彼女はぴんとした背筋で座っていた。
 何が何だか分からない本棚の中を潜り抜けて、急に広がった読書スペースと、見慣れたカーディガンに髪の毛。きっといつもは出していないであろう携帯を律儀に出しているものの、ハードカバーの本を小さな手で一心に捲ることは止めていない。
 オレが連絡をしてからどれくらい経過したのか分かっていなさそうな背中に、一度踵を返そうと背中を向けると「隼飛くん?」と、囁くような声がした。「なんで分かったの」静寂に支配されているだだっ広い場所でオレはそっと息を吐くように言葉を紡ぐと、「ガラス」と同じ囁くような声で彼女は顔を上げた。円形の図書館、彼女の座る席とテーブルの正面は一面が窓になっており、反射したオレが見えた、というわけか。「あとピアス」それはそうだ。
 糸に引かれるようにオレは彼女の方へ向かい、空いていた隣の椅子に腰かける。彼女にはしっくり来ている椅子も、オレからしたら少し狭苦しく、軽く椅子を引いたまま、本の残り少ないページに指を差し込んだ彼女を覗き込んだ。

「まだかかるでしょ」
「いいの?読んで」
「オレも適当に取ってくるから」
「なんだ、愛想つかしてどっかお店でも入っちゃうのかと思った」
「しないよ、そんなこと」
「あ、声、小さくしなきゃ、しぃーだ」

 「図書館で人と喋るなんて借りる時しかないからなぁ」とやけに浸るような口調で呟いた彼女がまた本を開いた後「いってらっしゃい」とオレにちいさく手を振った。手を振られたオレにも、手を振り返そうとしたオレにも視線をやることはなく、ただまた同じように一心にページを捲る。待たせたら悪いという意識よりも、早く続きを読みたいという意識の方が強いのだろう。
 オレは「しぃー」と唇を横にして指先をぴんと立てた彼女の顔をぼんやりと浮かべながら、本棚の中を回遊魚のように彷徨っていた。
 キラキラとした瞳は、もともとの顔だちよりずっと幼く彼女の顔を見せる、初めて見た顔だ。ここでは、いや、本という世界、活字の前では彼女の瞳はあんな風に輝くのか。すぐに立ち上がれるように余っていた新聞を手に取って、また本棚の中を少しだけぐるりと回ってみる。新聞を手に取ったことを、優しさとも、面白みのなさとも取るであろう彼女に、少しだけ格好をつける為。
 幾つかの惹かれるタイトルや、彼女の家にあった料理本、その本棚にずらりと並んだ同じ作家の名前も視界に入る。どの程度か特に気にしていなかったけれど、少し時間が出来るとここへ来る、という話は強ち嘘ではないようだった。
 新聞のがさがさという特有の音が、図書館という特殊な場所でいやに響いていることに気付き、やっとオレは席へ戻ることにした。少しページを巻き戻して、また読みかけの部分へ戻り、文章を目できちんと追っていく。オレは彼女から少しだけ椅子を離して、新聞を持ったままテーブルに座った。

「なんで離れるの」
「狭いんだ、ここ」
「……足長いからじゃない、むかつく」
「そういう言葉遣いはやめようねって言ったでしょ」
「怒り心頭です」

 彼女が律儀に履いていたパンプスを器用に脱いだ後で足を伸ばしてオレの膝のあたりを蹴り上げる。正式には蹴り上げようとして、ふくらはぎを可愛らしく突く様になっただけだった。流石に席を離しすぎたか、と冷静な分析をしていても、オレも、そしてパンプスを履きなおしている彼女も、一度目が合った瞬間、堪えきれず笑みが溢れた。グラスから溢れてしまった水のように、止める方法の分からない笑みにオレは新聞紙をひとつ小さく畳みなおしながら、椅子を近づけた。クスクス、と妖精のような声で両手を抑えたまま笑いだす彼女の肩にオレの肩をくっつけると、また肩が動く。見なくてもパンプスを脱いだのも、オレのくるぶしをとんとんと突いたのも分かる。

「酷いね」
「酷いな」
「笑わせないでよ、出禁になったら困るのに」
「勝手に笑ってるくせに」
「隼飛くんもさぁ、」
「あー、でも、……しぃ、でしょ?」

 オレは先程の彼女と同じ仕草をしたあと、テーブルに起きっぱなしにしていた新聞紙をまた広げなおす。「そうでした」彼女はそう呟いて、どこまで読んだか分からないように閉じられていた本を迷いなく広げ、視線を落とす。きちんと把握しているのか、ぱらぱらと少しページを進めた後で、また物語の世界に沈み込んでいく横顔をオレは見つめていた。今朝一度読んでいる新聞よりも、その横顔の方が見ていて飽きることがないなんて、当然の事実なのだ。肘をついて、オレがぼんやりとその横顔を見つめていると、案外本はすぐに読み終わり、彼女が鞄を持ったまま立ち上がった。真っ直ぐに目的の本棚に本を仕舞い、オレの持っていた新聞も元の場所へ納め、やけに足早に図書館を出ていく。少し騒ぎすぎただろうか、いや、一応大人として節度のある声量で話していたつもりだけれど。気分を損ねたとしか思えないほど無言で歩いている彼女が、図書館の自動ドアを潜り抜けて数歩歩いてからやっと口を開く。

「全然頭に入らなかった」
「何が」
「本」
「佳境だったんじゃないの?」
「……あのさ」
「なに」
「見すぎだよ」

 彼女はいつから、いや、多分最初からオレが新聞を読む気がないことに気付いてしまっていたのだろう。視線を落として生真面目に本を読みなおす横顔を、夕暮れのガラス窓に映る顔を、オレが見ていたことを知っていた。それでも必死に本に没頭しようとしていた生真面目さと、結局オレに見られることに耐えられなくなったいじらしさがあの迅速な行動に繋がっていたのか。

「いい顔してたけどなあ」
「そういう問題じゃないです」
「また行ったらいいよ」
「行く、絶対一人で」
「たまにはオレも着いていってもいいかな」
「ほんっとやだ」

 言葉と裏腹にオレの指先に当たり前のように絡める指先のぬくもりと肌の感触に、手が溶けてしまうような錯覚を覚える。
 「夜ご飯どうしよっか」オレが握り返した手の力に満足そうに唇を上げた彼女が夕焼けのなか歌う様にそう言った。余りに滑らかなその声に、どこだっていい、なんて、ラブソングのような答えを返してしまいそうになり、口を一度閉じる。
 本当にどこだっていい、彼女となら。まだ声にする予定ではないその気持ちを飲み込んだオレは、桃色と水色と橙の混じった空を眺めたまま、ラブソングではない現実的な答えを熟考することにした。