幼い恋人は独占によって恋愛に伴う不可思議を解明しようとしていた。
不毛で、幼稚で、愛おしかった。
そもそもは些細な判断ミスだったように思う。
「ケータイ鳴ってます」
鳴り止まない携帯電話の着信音を鬱陶しく思ってか京太郎くんが言うも、テレビボードから至近距離にぺたんと座りこんでブルーレイレコーダーのハードディスクの編集作業に夢中になっていたわたしは曖昧な返事をして、背後のソファを占領して横になっている京太郎くんの動向に気を配ることも、ソファから手を伸ばせばすぐに手の届く位置にあるローテーブルのうえの携帯電話の画面を確認することもなかった。小さく鳴り続けているメロディはポルノグラフィティの「Zombies are standing out」で、受信したのがメールであるということも重なってわたしは震える携帯電話を気にも留めなかった。
あとになって思えば、それがことの発端だった。
「浅田って誰です」
あからさまな不機嫌を含んだ京太郎くんの声が頭のうえから降ってきた。それと同時になにかよからぬ不穏な空気を感じ取り、ブルーレイレコーダーのリモコンを操る手を休めて背後を見れば、ついさっきまでソファに寝そべっていた京太郎くんは誰の目にも明らかな不機嫌を顔面に貼り付けたひどく圧のある顔でわたしを見下ろしていた。左手にはわたしの携帯電話を持っている。どうやらメールの差出人を見たらしかった。
「ああ、浅田さん。職場のひと。なんて?」
「見てないですけど。見ていいんですか」
ひとの携帯電話を勝手に盗み見るだなんて悪趣味を持たない京太郎くんは、どうやらメールを受信した際に画面に表示される差出人の名前を目にしただけらしかった。浅田さんは入社当初よりいろいろとよくしてくれているわたしより二歳年上の先輩で、昼休みに一緒に昼食をとることはあるけれどもそれ以上の関係はない。わたしは浅田さんの誕生日も血液型もましてや今まで付き合ったことのある女の子の数なんて知らないし、浅田さんはわたしの誕生日も血液型もましてや彼氏が二歳年下だなんてことも知らない。その程度の付き合いだ。やましいことなど一切思い当たらないわたしは二つ返事で京太郎くんの申し出を了承して再びハードディスクの編集作業に夢中になった。
あとになって思えば、それこそが一番の誤りだった。
「浅田さん、なんて?」
すっかり黙ってしまった京太郎くんを促すように暢気に尋ねれば、どかっ、と背中に強い衝撃があってわたしは前のめりになって思わず床に左手をついた。右手のリモコンは無事だ。なんだなんだ、と頭のうえに無数のクエスチョンマークを点灯させてみるけれども、頭頂部から頬にかけて流れてさらりと肌に触れる髪の毛と、腰をがっちり拘束する逞しい腕を見れば、膝を折った京太郎くんが多少乱暴に抱き着いてきたことは明白だった。
「ん、なに、どーしたの」
京太郎くんがいくら細身とはいえ、190cm80kg超の体躯を受け止めるにはタッパも筋力も到底足りない。なんとか左手で自分の体重を支えたまま、リモコンを床に一端預けて京太郎くんの頭を逆手にそっと撫でれば、月一で通っている美容院のにおいがした。ちょっといいトリートメントのにおいだ。
「飯行ったんですか」
「え」
「浮気だ」
「ええ」
京太郎くんが一体なんの話をしているのか皆目見当がつかないでいると、ぺたんと座りこんだままでいたわたしの膝の間に京太郎くんがわたしの携帯電話をぞんざいに落とした。膝に当たってスカートの撓んだところをつるりと滑ったそれを右手で拾い上げ、京太郎くんが急に不機嫌になってしまった根源が潜んでいるであろう受信メールを開くと、一番上に表示された浅田さんのメールにはだいたいこんなことが書かれていた。
先週行ったお店また行こうよ。良かったら、明日の夜にでも。
「蘭子さん嘘ついたんですか。職場の人って言いましたよね」
「いやいや、いやいやいやいや」
誓ってわたしは嘘をついていない。彼は職場のひとで、なんというか、この文面を京太郎くんが読み解くには少し予備知識と材料が足りないだけだ。
先週の水曜日、確かにわたしは浅田さんと一緒に食事をした。けれどもそれは12時から13時にかけてのたった一時間の昼休みの出来事で、そのうえ経理部の河野さんと江口さんも一緒だった。そして、わたしの見たところ浅田さんは河野さんが好きだ。浅田さんが入社した頃から贔屓にしているうどん屋は夜になると居酒屋として営業するらしく、昼間とはがらりとメニューが変わるのだと言う。今度は夜に連れて来て下さいと河野さんが言ったとき、浅田さんはそれはそれは嬉しそうに緩みきった、それはそれはひどい顔をしていた。けれども部署の違う河野さんを誘うだけの口実を見つけられずに、こうしてわざわざ日曜日の昼間から自らの後輩であり、河野さんとそれなりに仲の良いわたしを食事に誘ったのだろう。短い文面に付随した、「河野さんも一緒に」の文字が見えるようだ。良い歳をして後輩を自らの恋愛事情に巻き込まないでいただきたい。わたしたちが暮らしている人間社会は相当に複雑なものだから、こうして稀に玉突き事故のように悲惨なことが起こる。
携帯電話を気に留めなかったこと、メールの中身を容易く京太郎くんに晒してしまったことをわたしは今になって盛大に後悔していた。職場で繰り広げられている人間関係のあれこれを口で説明しなければならないとなると、とにもかくにも面倒だ。
「京太郎くん。あの、京太郎くんが思っているようなことは一切なくてですね」
「浮気だ」
「浅田さんには、河野さんっていう好きなひとがいてですね」
「浮気だ」
「わたしはその、なんていうか、恋路のお手伝いをさせられておりましてですね」
「浮気だ」
わたしはみるみるうちに浮気女のレッテルだらけになって辟易してしまう。京太郎くんは付き合い始めた当初からこうだ。わたしのプライベートを覗こうだとか害そうだとか、おはようからおやすみまでを完全に把握しようとすることはないけれども、ちらりと垣間見えた自身の知らないわたしに過剰反応を示す。大学生時代にゼミの男の子とふたりで飲みに行ったことがどういうわけか知られてしまったときは、二週間ほどずっと機嫌が悪くて最初の一週間は顔を合わせても口をきいてくれなかったし電話にも出てくれなかった。卒業旅行に二泊三日で沖縄へ行ったときも、そのなかに男の子が混ざっていると知ると引き止めこそしなかったけれど途端に不機嫌になって暫く手に負えなかった。
わたしはそんなに信用のならない、ふしだらな女だろうかと思うこともあるけれども、京太郎くんにしてみればたぶんそういうことではない。ただ、自分の知らないわたしを他人が知っていることが我慢ならないのだ。決して口にすることはないけれども、態度こそ雄弁な京太郎くんの考えていることなんてすぐに分かる。信頼と愛情は全くの別物だ。少なくともわたしの恋人においては。
「蘭子さん」
「はい」
「オレのこと、ちゃんと周りに言ってますか」
わたしに全体重を預けきった京太郎くんが言う。痛いところをつかれたわたしはえっととかああとかうんとか曖昧な喃語ばかりを繰り返して最終的に「キッチンに筑前煮あるよ」と話題を逸らした。筑前煮は彼の好物だ。しかも今日の筑前煮は彼のおばあちゃんからレシピを教わって作ったものだ。
「話逸らすな」
けれども鋭角に処理を計ったそれがうまくいくはずもなく、すぐに軌道修正を計られてしまってわたしは早々に白旗を掲げた。
「言ってないけど、ほら、あれ、自分から言うのもおかしいっていうか」
「言ってください」
「ええ」
「明日月曜でしょ。朝礼ありますよね。そこで言えばいい」
「いやいや、いやいやいやいや」
ひとたび機嫌が傾いでしまえば京太郎くんは手に負えない。いつも無理難題をわたしに押し付けてはわたしを困らせる。面倒臭いことこのうえないけれども、しょうもない独占欲だと振り払ってしまうことができないでいるのはわたしの落ち度だ。
目の前のテレビ画面には編集途中のドラマのワンシーンと再生時間が表示されている。今日こそ編集を終えてブルーレイに焼いてしまわなければ明日からの録画予約が危うい。わたしの左肩に額を押し付けたままじっとしている京太郎くんの機嫌が回復するときをそっと待とうではないかと腹を決め、左手一本で体重を支えたまま右手をリモコンに伸ばすと気配を察知してかにゅっと伸びてきた京太郎くんの右手に捕まった。それなら、とバランスをとりながら左手を伸ばすと左手も同じく捕まって、両手とも役立たずになってしまった。
「え、ちょっと、京太郎くーん、これ、なんもできないよー」
「いやなんだったら、指輪してください」
「うえ」
「指輪。買うから。毎日して」
わたしの左手の薬指の付け根を、京太郎くんの左手の指先がゆるゆるとすべる。
「ええ」
「なんですか。ええって」
「仕事中邪魔にな、いたっ」
わたしがなだらかに拒否を示していることと察すると、京太郎くんにぎゅっと薬指の付け根を締め付けられて思わず声を荒げてしまった。ちょっと、と窘めるように声を上げても肩越しの京太郎くんは全く悪びれない様子でつんとそっぽを向いている。京太郎くんはどんなに歳月を重ねても独占欲と無意識の甘えが薄れないままで大人になっていく。困った子だ。
以前に一度会ったことがある京太郎くんの高校生時代の先輩、わたしからすれば同い年の梅宮くん曰く、昔はもっと寡黙で他人への依存性が強かったらしい。その最たる依存先である梅宮くんにしか興味の矛先が向かない程に盲目的な狂信者であった京太郎くんの、文字通りの狂犬ぶりと良くも悪くも血の気の多い高校生時代の諍いの顛末を聞いて若干引いたのは記憶に新しい。そんな、梅宮くん以外の他人に悉く興味を持たなかった京太郎くんがどんな紆余曲折を経て「外」の人間であるわたしと付き合うに至ったかは割愛するとして、これは京太郎くんにとって良い傾向だと梅宮くんは朗らかに笑っていた。
恋愛のやり方だなんて人それぞれだとは思うけれども、心と時間を割いている存在を周囲に好んで知らせるような恋愛をわたしは好まない。これまでにも指輪を贈ってくれたひとはいたけれど、左手の薬指にしたことはない。自分の所有権みたいなものを他のひとが持っているような気がしてなんとなく気味が悪いのだ。当たり前のようにペアリングをしてその手を繋いでいるカップルを見ると微笑ましく思う、けれども自分がそうなりたいかと言えばそれはまた別の話だった。
「ひゃっ」
この認識の差分をどうして埋めて説明しようかと思案しているうちに、左手の薬指をべろりと舌でなぞるように舐め上げられて思わず上擦った声が出た。制止を求めて声を上げるも京太郎くんはわたしの左手を好き勝手に舐めまわしたり噛んだりしている一方で全く聞く耳を持たない。
「ちょ、京太郎くん、なに、やめて」
「嫌だ」
「いやって」
「嫌だ」
「京太郎くん」
「嫌です」
「わかった、わかったから!」
わたしが観念して白旗を掲げると京太郎くんはやっとわたしの左手を舐めまわす舌を引っ込めた。解放された左手は京太郎くんの唾液でべたべたになっていて、特に薬指には無数の歯型が残されていてひどい有様だった。本来体内に隠しておくべきものをここまで堂々と見せつけられてはいっそのこと清々しくさえ思えてくる。好きだとか愛しているだとかきみの存在が僕の存在の肯定だとか、そういう類の分かりやすい愛情を見せてくれることは皆無だというのに、こんなふうに歪んだ愛情表現だけはお得意のようだ。ぬらぬらと光る左手を呆れた顔で見下ろして、洗ってくるね、と一言残して立ち上がろうとしたけれども腰をがっちりと掴んだ京太郎くんの右腕は剥がれなかった。
「わかったってなんですか。ちゃんとわかってますか。なにがわかったんですか」
今日の京太郎くんはいつにも増して粘着質だ。
「うええ……めんどくさい……」
「蘭子さん、声に出てます」
「あ、いけない」
口を噤んで、度重なる失態を誤魔化すようにへらりと笑えば、むに、と唇を押しあてられた。京太郎くんはいつも脈絡のないキスをする。頬を染めて、息を止めて、瞼を閉じる暇もない。京太郎くんの繊細な睫毛が鼻先で震える。たったそれだけのことでどんなに幼稚な振る舞いも愛らしいものだと思えてしまうから、恋愛は不可思議だ。
京太郎くんの機嫌が不安定に行ったり来たりする理由をわたしは正しく理解している。わたしがいつまでたっても所有物にならないから、ちゃちな独占欲が加速するのだ。けれど、彼の満たされない心の隙間を満たすことなんてわたしにはできない。キスをしてもセックスをしても、左手の薬指に抑止力を縛りつけても痛々しい歯型を残しても、不名誉で不本意な浮気女のレッテルをどんなに与えられようと、わたしはわたしの所有権を手放せない。
けれど、わたしの所有権を獲得してしまいたい京太郎くんとの攻防は恋愛と呼んであまやかに一掃してしまうには惜しいくらいに有意義だった。
「京太郎くん、わたし、すごく、愛されてるんだってわかりました」
「は?作文?」
「うん。作文です」
「……蘭子さん、やっぱ全然わかってないです」
「手洗ってくるね」
些細なことにすぐ機嫌を損ねてしまう京太郎くんはまたしてもむっとした顔をしたけれども、そうはさせないと首を捻って肩越しにキスをすれば目を丸くした京太郎くんの右腕が緩んだ。隙を見て京太郎くんの腕から抜け出して、足早に台所に向かって丁寧に手を洗った。べたべたした手の平はすぐに清潔を取り戻したけれども左手の薬指に残った歯型は消えなかった。
ちゃちな独占欲だとは思う。幼稚で、恥ずかしくて、情けない。けれども左手の、薬指一本くらいならあげても構わないと思えた。わたしの甘いところが京太郎くんのいけないところを増長させる。分かってはいるけれど改めることができないでいることが、わたしの落ち度だ。
「蘭子さん」
気配なく近付いてきた京太郎くんが背中にべったりと貼りついて言う。どうやら京太郎くんはどうにもわたしの背中に吸い寄せられてしまうらしい。
「出掛けます」
「どこに?」
「どっかに」
「なにしに」
「指輪、買いに」
「ええ、ほんとにするの」
「します」
「えー」
「いま行かなかったら、ずっとこのまま拗ねてます」
「えー」
ふと窓の外に目をやればすでに日は傾きはじめていて、ブルーレイレコーダーのハードディスクの編集作業も途中なのだけれども、京太郎くんがこうなってしまったなら仕方がない。蛇口を捻って水を止め、歯型の残る指先を丁寧に拭って、わたしはわざとらしくしかたないなと零した。