ベッドに寝そべって、ただほの白く均された天井を眺めていると、目以外の身体の器官が敏感になる。目は開いていても開いていなくても白を映しているか残像を残しているばかりだからだ。真っ暗な中で耳や皮膚感覚が敏感になるというのとおんなじだろう、とビニール袋の音に忌々しげな息を吐く遥くんの足音が近づく中で考えた。
だらり、とベッドの中で置き去りにしている両手も両足も動きたいという気概をまったく感じることがない。ただビニール袋をテーブルに置いた後、洗面台で手洗いとうがいを済ませた遥くんがこちらへやってくるのを今か今かと待つばかりだ。
部屋は静かで、長方形の窓とまだ明るい外の光を少し透かせたカーテンの色を瞼がたまに感じて、ぴくりとする。やっとこちらの部屋へ足音が向き、ドアが開けられた時も、わたしの視界は白く、身体は固定されたようにがっちりと固められていた。
「……仕事は」
「うわっ!いきなり声かけんなよ」
「いや、普通に起きてたから」
「じゃあなんか返事しろって、オレ、連絡したんだけど」
「それは普通に動けなくて見てなかった」
「普通普通って、仕事休んだんだろ」
「オレは空き時間あったから」と付け足したあとで、今朝がたに交わしたただの何気ない雑談のつもりだった内容を彼が心配してここへ来たことが分かってしまう。
けれども、あの瞬間のわたしは今のわたしと概ね同じで、何かを付け足したり、フォローしたりする気力までは持っておらず、全てが限界だった。限界というとまた体調が悪そうに聞こえて、部屋に入った彼に声をかけただけで大きな驚きの声を上げる遥くんを更に心配させることになるのだろう。
仕事は休んだけれど、眠る体力も残っておらず、この数時間は天井を見ていたけれど、それなりに食欲はあるし、元気だ、と言う事が億劫なのだ。唇を動かすことが億劫なのか、喉を動かすことが億劫なのか、手首が異様に重いのが悪いのか、細かなことまでは分からない。それが、彼女として優しさのない回答だと自分で理解しておきながら、颯爽とわたしのところへやってくる遥くんを見て笑いが込み上げてきた。
真っ白な天井に飽いていたからこそ、少しばかり首を傾けて部屋の入り口に立つ遥くんの方を見ると、彼は見たこともない大きさのマスクをしている。
「だっ、さ」
「家にこれしか無かったんだよ」
「いや……遥くんの顔の小ささが計れるね、凄いよ」
「なんでオレが病人に気ぃ遣われきゃなんねえんだ」
「病人じゃないよ、ちょっと、こう、手の震えが止まらない日々だったから一日休んでみた」
「ガッツリ病人だな」
彼の顔半分ほどを覆う白いマスクは、なんというか、子供が成人男性用のマスクをつけたらこうなる、という感じで、とにかく似合っていなかった。非常に個人的な問題だけれどわたしが見たかった遥くんの顔の半分をマスクが覆っているというシンプルな事実自体もマスクの印象を下げる。
ただ、オレも仕事あるからなんかうつったら困る、というスタンスを崩さない遥くんを、わたしはまた「いいな」と思う。じゃあ来なければいいのに、とも言いたくなるけれど、そこまで攻撃性を持った人間ではないし、何より、失礼な言葉に思えたのだ。大人になって、ちょっと体調を崩して会社を休んだと言ったら、その日に飛んできてくれる同じ社会人として働く彼氏に対して。
鼻水も咳もなく人に移るようなものは持っていないから別に明日から会社にも行くのだと告げると、遥くんが「ううん」と悪夢にうなされる様な声を出す。元来、病気とは無縁の達であった、と人生を振り返って思うけれど、多分それは勘違いで、病気だと気付かない達であったというのが正しい。わたしという人間をよく知ってしまったせいで、遥くんは余計にうなされたような声で「マシになった」と疑問符があるかなきかの声が部屋に響く。なった、と言っても、なってない、と言ってもあまり信用されていないのは彼の瞳を見なくても分かる。火を見るよりも明らかとここで無駄に正しい慣用句の使い方を思い出してしまうほどには。
「で、いつから」
「たぶんー……おととい」
「いい加減にしろよお前」
「はい」
「ちょっと前から連絡遅くなったり、朝食べなくなったり、おかしいって思ってたんだわ」
「あー……そうなんだ」
「そうなんだじゃねえよ、なんでオレがお前の身体調把握しなきゃなんねえんだって」
「賢いから自然としてしまうのでは」
「鬱陶しい」、前髪を払う仕草をした後で遥くんがこちらへやってきた。やっと、スリッパの間の抜けたぱすぱすぱす、という足音がして、先程までドアを隔てていたとはいえいかに彼が気を遣って歩いていたかがわかる。
ベッドの柵の後ろに立った彼が真上からわたしを見下ろして、真っ白かった天井が遥くんでいっぱいになった。少し首をあげただけで身体中が虚脱感に溢れてしまったことはあまり言わない方がいいだろう、と思いながら、白くない彼の顔の上半分を眺める。ただ、直ぐにズボンのポケットかどこかにしまわれてしまったマスクの存在に一瞬だけ思いを馳せた。
こう、今虚脱感があるだとか、手首が重いだとか、そういうことはいつも理解している、その瞬間だけ。けれど、振り返ってみると体調が悪かったという結論に達さないせいで、何度も一人で家で寝込んだことがあるのだ。
一番初めは何も知らない遥くんは、二日間電話の折り返しもラインの既読もないわたしに、死んだか振られたかのどちらかだと思ったらしい。合鍵を使って部屋に入ろうとして鍵が変わっていたらそれまでだとまで思った彼の決意を三日後にわたしは「ごめん、寝込んで連絡忘れてた」というラインでぶち壊したのだけれど。
元々、遥くんだって連絡、というか、携帯電話というものを触らないというのに、わたしに対してはきちんとしてくることを求めているような気がする。オレもきちんと向き合っているから、お前もちゃんとやれよ、ということなのか、ただの心配性なのか、実は未だによくわからない。
「飯は」
「……あー」
「あーじゃねえって、」
「遥くん、まだいるの」
「蘭子がなんか食べるの見たら帰るわ」
「五時間くらいかけて食べようかな」
「出来るもんならやってみろ」
すぐに覗き込むような形を止めてしまった遥くんの顔が見えなくなってしまった、という単純な理由でわたしは身体を起こす。手がぷるぷると震えていて、首筋が熱く、触れるとじんわりと首全体に汗をかいているのが分かった。触らないと分からないのかと怒られそうだから言わないけれど、そこで、まだ回復しきっていないことを自分で察する。
全てがデータ化されていたら、もう少し分かりやすく把握できるのに、と思ってすぐに、もしデータ化出来ていたら、遥くんはあんな変なマスクで、何やら買い物をしてわたしの家に来ることもなかったわけだ、と思い直した。
わたしの言葉に何を答えることも無い遥くんのTシャツに手を伸ばすと、いつもなら伸びる、と怒るくせに今日は静かに手を取ってくれる。ぼやぼやとしているから、優しいなぁと思ったその「やさし」くらいの感情の認知度のあたりで「お前まだ熱あるな」と遥くんが断罪するような声を出した。無いと答えれば嘘をついたことになってしまうから、わたしは押し黙る、嘘だけはなるべく付かないことにしているのだ。すぐに手を離した彼が「寝とけよ」と言って、わたしの手を丁寧に置いて部屋から出ていく。
多分ビニール袋の中身はわたしの想像の範疇を超えず、遥くんの茹でるうどんは箸で掴もうとすると千切れてしまう程にぐずぐずなんだけれど、上に溶かされた卵は固い。出汁はいつもうちで常備しているものだから味に変化はなくて、なのにいつも、びっくりするくらいわたしは真剣にそのうどんを食べる。美味しいかどうかを遥くんは聞かないから、自分の料理スキルを客観視していてその出来も分かっているのだろう、それでもわたしはどうしてか「逃げないから落ち着いて食え」という遥くんの声を無視して、そのうどんを一度箸をつけたあと、水を飲む以外はひたすらに舌を酷使するようにして胃に入れていく。食べ終えてから苦しい、と思ったり、久しぶりの食事だったな、と思う。
食べている間は、遥くんの困惑しきりの視線を浴びたまま、わたしは彼の作ったぐずぐずのうどんを、鼻を啜りながら、味もよくわからないまま、固くなった黄身をつゆに浸して、必死に食べる。
「楽しみだな」
蘇る記憶は鮮明だけれど、実際はかなり前のもので、だからこそ小さく呟かれた自分の声は酷く感慨じみたまま響き、その残響を残したまま、ベッドにおとなしく潜りなおした。
キッチンでかけられている手間や時間以外に、彼がここへやってくるまで、いや、出会ってから今までの何がしかをいつも思い出す。遥くんが、未だに体調管理のままならないわたしにちょっと怒りながら鍋を探しているさまを想像しながら。
それでも、きちんとわたしが元気になることを願って作られる食べ物は、細胞から身体を元気にしてくれるのだとわたしはちゃんと知っている。