紙に印刷された小さな文字を追っていると、同じ部屋に人がいることを忘れる。
携帯の時は、仕事などの要件であったとしても多大なる迷惑を彼にかけているような気がして、彼がいることを忘れるなんてことはない。むしろ意識して急いでしまうし、一人であれば少し先延ばしにしてしまうことも長引かないうちにと終わりにしてしまう。
いそいそと携帯の画面を開いて文字が画面に浮かび上がるさまを、自分が行っている事なのにどこかぼんやりと眺めながら。けれど、いまわたしの手元であたたまっている文庫本は、わたしをまったくの違う世界に導く。
広いソファの反対側で少しばかり崩した姿勢で静かにニュース番組を見つめている遥くんのことを、一瞬忘れる。短編小説の幾つかを読み、ニュース番組の内容が報道からスポーツに変化した頃、区切りのいい話を読み終えて、本を閉じた。一年ほど前に買った皮の栞がやっと手に馴染んで来たことや、本の中で描かれていた運命的で簡潔な恋愛のさまに思いを巡らせながら。
「終わったのか」
「途中だけど、ひと段落」
「新しいやつ?」
「ううん、昔の。久々に読みたくなって」
「へえ」
お皿を洗ってハンドクリームを両手に広げながら部屋に戻ると、遥くんが背中だけ見ても分かるほどじっとニュース番組を見ていたので、邪魔をするのもどうかと思い、気まぐれに一冊の本を手に取っただけなのだ。だから、そこまで後ろ髪を引かれることもない。
何年もかけ、繰り返し読んだ文庫本の背表紙は所々よれていて、ぴんと背筋を伸ばしたように真新しい本屋の文庫本とは全く違う。だからいいんだけれど、と、くたびれた本の背中を撫でながら小説の中で起きた色々な人のうまくいったり、いかなかったりした恋愛と、遥くんのいやにさらさらしたツートーンの髪が同時にわたしの身体の中に入ってきた。相も変わらず、色は鮮やかなのに夜よりも黒い彼のまなざしが不躾なほどにわたしを突き刺してくるのに、言葉は取り立ててこちらへ向けられない。何かを話すべきなのか、と強いられるように考えるのもまた関係の中で違うだろうし、けれど少し沈黙の居心地がよくないのも事実だった。
ぱらぱらと手持ち無沙汰な手の中で文庫本を触ると、先程一番面白いと思った話が目に入った。桃のサンドウィッチを作る話だった、好きと言えない変わりに、桃のサンドウィッチをお別れの日に二人で食べる話。ハンドクリームのせいで湿り気の帯びた指先が本のページに引っかかって、それでも栞の所でまた本はぱかりと開いてくれる。やっと馴染んだ栞との付き合いは遥くんより短く、けれども、この本は遥くんと出会う前からそういえば手元にあるもので。
「遥くん、わたしのこと好き?」
「……なんで」
「ちょっと好きって言ってみて」
「絶対嫌だ」
「……はい」
「なんっで、強制されて言わなきゃなんねえんだよ、普通言いたくなるから言うもんだし、軽々しく言う事でもないだろ」
遥くんとの付き合いは本より短いながら、栞よりは長い分、ある程度の返答は予想していたけれど、耳と頬を赤くしながらもここまで長々と急に喋り出したので、わたしは虚を突かれて目を丸くする。最近はこういった話題で分かりやすく狼狽を露わにすることも少なくなっていた。目をこれ以上丸くできないというほど丸くした後で、子どもの頃にうまく話せないながらに母親に今日起きた悲しかったことを話して、あまり上手く伝わらなかったときと同じような感情がふつふつと心に湧いてくる。怒られた時にも似ているけれど、残念という気持ちにも似ている、届かない、という気持ちが最も近いのだろうか。
あまりにも目を丸くしながら考えたせいか、一番しっくりくる言葉は見つかることがなく、ただ目を丸くして、「うん」と答えるほかなかった。遥くんは人のこころの機微に敏感だからか恋愛ごととなると変なセンサーが働くらしく、なかなかに天邪鬼な質のある彼に頼んだところで素直に好きだと言うわけがないと分かっていたけれど。うん、うん、うん、これ以上考えは進まない。ただ、自分が答えた「うん」という言葉はちいさく尖った石みたいな形で、部屋の中を転がって、まだ目に見えるところにいる。
言わなければよかったな。凄く美味しくなさそうな桃のサンドウィッチの味を考えた心は、桃の汁を吸いつくしたように重い。小さな声が尖った石になって、心が甘すぎて重くなって、遥くんの綺麗な顔が、彫刻みたいにしんと固まっているわたしの部屋。青くさえざえとした本の表紙の、タイトルの四文字がまるで自分の心をやすりで撫でるような音に似ていて、自嘲めいた笑みすら零れそうだった。
どうやって明るい話題に取り戻そうか、テレビはもう疾うにニュース番組を終え、深夜のバラエティに移行しているけれど、それらは全て言葉ではなく、音の波のような形でこの部屋をくるくると回っては消えてしまっていた。時計の針は番組が始まって十分過ぎを示していて、どうやら時間も歪んでいるらしい。
「……なぁ、」
「んん、何?」
「オレ、言い過ぎた?」
「えぇ?」
「そんな顔すると思わなかった……し」
「……そこまで酷い顔してる?」
「酷いって言い方は違ぇけど」とどこか気まずそうな顔で言って、遥くんが普段ならきっと自分からここまで近づくことはないだろうというゼロ距離でわたしの隣に座りなおしたあとで、またじっとこちらを見つめてきた。
言い過ぎた?という疑問符は、やけに真剣で、そう思っていないこともないけれど、別に想定の範囲外かと言われたらそうでもない。
両手で自分の頬を、唇の端を触ってみるけれど、酷いのか酷くないのかは分からず、膝に置いた文庫本がソファの端に滑り落ちていく。けれど本を掴むことは出来そうになく、わたしの両手首を遥くんがそっと掴んだまま離そうという気配はない。そっと身体の向きを遥くんに軽く向けるだけで、彼の瞳に自分のぼんやりとした輪郭と、部屋の少しオレンジがかった光が映っていた。
「言わなくても分かるだろ」
「う、ん?」
「お前は、オレが好きって言えって言ったら言うのか」
「……言うよ。減らないし、好きって気持ちも」
「減る、いや、減らねえけど、減るだろ。なんか、減る感じするっていうか」
「分かるよ、言いたいこと。だから、強制してごめんね」
「なんで聞いたんだ」
「本読んでたら、好きって遥くんの口から聞きたくなった」
「知るか、てか、なんでオレいるのに急に本読みだしてんだよ」
遥くんが軽く、けれど確実に吐き捨てるようにそう言ったから、本当に自分の目がそのままフローリングに転がってしまうかと思った。
わたしの手首を掴む彼の手が少しだけ緩んで、わたしほどではないにしろ、彼の目も見開かれる。落っこちそうだ。もしこれ以上開いたら、彼の手を振りほどいて頬の辺りにてのひらを置いて「目が落ちちゃうよ」と言ってしまいたくなるほど。
綺麗な二重に、濃紺と琥珀色の大きな瞳はなんでも見えそうだけれど、別に特別たくさん見えるわけではないからわたしはそこがいいな、と思う。見えてしまったら、遥くんは今よりもずっとずっと考えることが増えてしまうから。
わたしは、率直な、天邪鬼な、けれどきちんと言い過ぎた時に言い過ぎたとすぐに思える遥くんの純粋さがとくべつ愛おしい。怒られたと思えなかったのはそういう彼の美徳があるからなのだろう。
落っこちてしまいそうな彼の瞳が、やっと数回瞬きをした頃、わたしはやっと彼の疑問に答えるべくあった言葉を滑り落とす。
先程転がってしまった尖った言葉の石ころはもう消えていて、今の自分の言葉はきちんと音として力を発揮した後、きちんと消える確信があった。
「ニュース見てたから、集中してるのかと思って」
「……それで読んでたのか」
「だってあの番組、残り二十分もなかったし」
「変なとこ気ぃ使わなくていーって。テレビもなんとなくつけただけで、意味なんかねえ」
「いや、まぁ、そうかもしれないけど」
「むしろ、オレがいんのに本読まれる方がよっぽど腹立つ、しかも新品でもないし」
「それ気にしてたの?」
「するだろ」彼の声がやけに掠れていて、手首が自由になっていたわたしが手を口に当てたまま「ちっちゃ」と零すと、「うっせ」と笑ったような怒ったような声が横ではなく頭の上から降ってきた。
自分の肩の下に文庫本があることに気付いたけれど、それを触れたりするのはあまり得策じゃないことも分かっている。
ひどく不器用に、恐る恐るわたしをソファに押し付けた遥くんの顔をじっと見つめていると、瞳にはちゃんとわたしの顔だけが映っていた。
瞬きをするたびに途切れ途切れになるわたしの輪郭を、それを映す遥くんの瞳、その奥にある感情を読み取ろうとわたしは視線を合わせる。視線が絡み合って、多分彼が更にわたしに近づこうと身体を倒した瞬間、ぴたりと動きが止まった。
一瞬の迷いもなく身体を引き戻した後、遥くんの手がするりとわたしの右肩に入って、彼がわたしの文庫本を滑らせるようにテーブルに置いた。栞についた赤いリボンがひらりと揺れている。
「大事な本なんだろ」
「え、うん」
「破れたりしたら困るから」
「……遥くん」
「ん」
「大好き、……さっきは困らせてごめん、変な気の使い方も、やめる」
多分、遥くんにとってその行動は特別な事ではなかった、顔が、動きが、些細で当然であることばかりを表していて、だからこそ余計に心を絞りつくされるような気持ちになった。果実を絞る機械が胸に押し込まれたような気持ちなのに、空っぽではなくて、新しいつやつやと、きらきらとした何かで同じくらい心は満ちている。
好きの大安売りをするつもりはないのに、膨れ上がる感情がどうにも止まらなくなったあとはその感情を濃縮した声が喉から出ていた。自分の声とは思えないほどどろどろに溶けた桃色の声が、膨れ上がる感情を四文字で簡潔に表してしまう。
遥くんは一瞬だけ、ひどく大きくまた目を開けた後、茹で上がってしまいそうなくらい真っ赤に顔を染めた後、何も見えなくなるほどぐっと目を細めて、身体を起こしてしまった。片方の手で口の辺りを覆ったまま、ソファの上で長い足を持て余したまま、流すように座る遥くんを追うように、身体を起こす。
「急に、何」
「……だって、そう思ったから。ダメだった」
「ダメとか、そう言うんじゃねえけど」
「うん」
「オレも……、いや。分かってると思うけど、オレの方が好き」
「それはどうだろうね」
「別に言いたかねえけどな、オレ、さっき本にキレてるからな、オレの方が勝ってる」
「……それは本当に言わないでいいことかもしれないよ」
なんでそんなことを自慢げに言うのか分からないけれど、青々とした表紙の本を一瞥とした遥くんが急に微笑んだ。青の表紙に白の抜き文字、荒い目のやすりで心を触られたような本のタイトルに先程より親しみを覚えていないことに、逆にまったくその感情を思い出せないことに気付く。
潤って、滴ってしまうほどの満ち足りた心に、どんなにやすりを当てても、傷がつくことはないらしい。
言わなくても言いことを正直に言う彼の美徳の眩しさを、人の大切なものを、当たり前に大切だと思い、守ることの出来る彼の心の美しさを、今も、明日も、来年も愛しながらわたしは日々過ごすのだろう。
彼の世界の、生きてきた日々全てを詰め込んだ濃紺と琥珀の瞳に映し出される世界のすべてがこれからもずっと鮮やかであることを願いながら。
願わくば、彼が見る景色の一部に、彼が見る景色のすぐ近くに、わたしがずっと寄り添っていられることも、強く願いながら。