「今日、帰んの」
彼は烏龍茶の入ったグラスを少しだけ揺らした。まだ大きい氷ががらりと音を立てる。
「一応」
「だから酒飲まねえの」
「あー……、それもある、けど、」
「けど?」
「ダイエット」
「いらねえだろ、そんなの」
蓮はそう言いながら軽く鼻で笑って、お互いを遮るように置かれたテーブルの上に乗った料理を勝手にわたしの取り皿に乗せる。どちらかといえば無頓着で、甲斐甲斐しく世話を焼かれる側だった蓮のこういう姿を見るのはいつでも新鮮に感じた。いつものぽやぽやとした顔が嘘のように手際よく、いくつかの料理をきれいとは言わないまでも乗せて、箸を置く。満足そうな笑みから、ゆるりと変化した表情は探るようにわたしの顔を、身体の線をなぞっていく。他の人が行えばきっと不躾と誹られる可能性だってあるだろう。店の照明のせいもあるだろうけれど、澄んだブルートルマリンのような色の瞳や、ちょっとずつ細められていく目、恐ろしいほど白い歯が何か考えるようにちょっとだけ口を動かして、やめて、また何か考えはじめる。そのすべての流れが、整い過ぎた顔面と、柔和としか形容できない、全てを見通したような視線の暖かい温度と相まって、むしろ労られているような心地よさすら覚える。
きっとわたしは蓮からの誘いを断らなければならない日もあるだろう。それでも彼はわたしを誘って、こうやって近況を聞いて、大変だなと頷いてくれる。優位、という意味ではきっとわたしがそうなのだろうけれど、彫刻にしては少し間が抜けた彼は、自分が優位であるなんてきっと微塵も思っていない。
「蓮は飲んでいいんだよ」
「……ん?」
「お酒」
「オレだけ酔ってるとかやだよ、つーかそもそも、今日車で来てる」
「あっ、そうなんだ」
取り皿に乱雑に乗せられた料理を口に運びながら、蓮が言いかけた言葉について考えてみる。
本当は分かっている、けれど、考えないと分からないことにしないといけない。一番大切なものをもし、きちんと手に入れてしまったら、あとは失う恐怖に怯えるだけだ。誰だって、失ったり拒絶されることは怖い。他人を信じられていないと言われたら反論の余地もないくらいその通りなのだけれども、蓮だってきっと同じ感情を抱えたことがあるはずだ。
いるはずもない彼氏の話を聞く蓮。気まぐれに、でも誠実にわたしに連絡をくれる蓮。仕事で落ち込んでいたわたしを見て、「彼氏は?なんか言ってんの」、「オレなら蘭子のことほっとかねえけど」とつぶやく蓮。へらりとした薄い笑みで何度誤魔化しただろうか、思い出せない。
蓮に会う前に流し込んだ安い缶チューハイのレモンの味がまだ喉の奥に残っている気がして、くっと眉を寄せた。
「あ?これ食えなかったっけ」
「や、違う、ちょっと考え事」
「ふーん」
「ご飯はいつも通り美味しいよ」
「蘭子はダイエットとかいらねえからな」
ありがとう、野菜を飲み込みながらつぶやいて、そっと腕時計を盗み見た。隠れて見るように、でも周りをきちんと見ている蓮ならきっと気づくように、ちらりと目を動かす。
これからも何度こうやって、蓮と会うことになるんだろう。出会った頃はとても健全に、純粋に、友人として好きで、そう答えられたわたしだっていたはずだった。なのに、少しずつ歪んできたわたしと蓮の関係、いやわたしの蓮への愛情、といった方が正しいだろうか。
敏く、優しい彼は、自分でも時間を確認してから口をそっと開いた。スパイシーで、でも甘くとろりとした、ブランデーのような彼の声がゆったりと鼓膜に染み込んでくる。
「時間、平気か」
「……うん」
「無理すんなよ」
「してない」
「じゃあ、これ、飲んだらな」
グラスをゆっくり揺らすその仕草と、それを見るたびに思う感情に既視感を覚える。その大人びた微笑みと指先の繊細さに心を乱され、包まれたグラスに何度嫉妬しただろう。
うそつきのわたしを、蓮はいつか嫌いになるだろうか。早く嫌いになってほしい、と心から願っている。蓮がわたしに対してのやさしさを失うまで、わたしが蓮を好きすぎて生きていけなくなるまで、繰り返されるのだ。
「今日、車乗ってけ」
「なんで」
「酒飲まなかったし、ついで」
いつの間にか、あと一口になったグラスの中の液体を見て、わたしも急いで皿の上のものを口の中に押し込む。あ、これ、おいしい。そんな笑みがこぼれた瞬間に、蓮が「やっぱな、好きそうって思った」とふにゃりと唇をゆるめた。気恥ずかしさに顔を伏せながら、ゆっくりと噛んで、飲み込んで、わたしも蓮と同じ烏龍茶を飲む。
二人の喉に流れる同じ液体、食べ物、それ以外に何も同じものがないのは、どうしてだろう。別々の人間だから寄り添うことができるのかもしれないけれど、寄り添うことのできない別々の人間はどうやって生きていくのだろう。
蓮とわたしはひとつになることができないから、そんなことを望まないから、早くすべてが終わればいい。
いつもなら彼の送迎を断るはずなのに、「お願いしようかな」なんて言ってしまったのも、きっと楽になりたいからだ。
好きだ、と言うことも出来ないのなら、せめてさよならだけ、きちんと言いたい。
嬉しそうに目を細めて笑う蓮は月のように眩しく、そのまぶしさから逃げるように、わたしはまた目を伏せた。