最初はぱらぱらとだけだった雨が少しずつ大降りになって来た頃、やっと見つけたコンビニの中で何かのオブジェのように積まれていたビニール傘の一本を購入して店を出ると雨は本降りになっていた。
コンビニの軒下で、一度携帯の画面をつけて彼女に連絡するか逡巡した後、あまりにも過保護であるような気がして携帯を仕舞った。待ち合わせの場所はもうすぐで、傘も屋根も店も連絡手段もすべてがあるのだから。
待ち合わせして食事をするというだけなのに、雨が降っているという事実が自分の肩を少し重くさせた。雨が作る距離感を自分があまり好んでいないのか、ただ、待ち合わせ場所に律儀に佇んでいるであろう彼女の影が過るからか。
そんなことも一人考えるだけでなく、待ち合わせ場所へ向かえば分かることだろうに、と気に入りの靴の表面に伝う雨粒をぼんやりと見つめながら、俺は仰々しいほど新品じみた傘の広がる音を聞いた。
乾いていたアスファルトにぽつぽつと、水溜りが生まれ、空はどんよりと鈍い色で覆われている。腕時計の針を見つめて、首元に、剥き出しの手に絡みつく冷えた空気を振り払う様に俺は歩みを速めた。
突然の雨のせいか、夕刻の割に人通りの少ない道を抜けていくと、見慣れた黄色の傘が一輪の花のようにぽつりと律儀にその場所にある。俺は傘から鞄か、自分の肩か、そのどちらもが順番に濡れていることを忘れてその傘に近づいていく。それが彼女でないことを、一ミリも考えることは無かった。黄色の淡いフィルターで覆われたちいさな顔が、やっとこちらへ向けられて、いつもと同じ顔で「お疲れさま」という声を聞く。
「いつから待ってた」
「さっきだよ。それに、ここで待ち合わせしたじゃん」
「屋根のあるとこいりゃ良かったのに」
「蓮くんが見つけられなかったら困るでしょ」
「そんなの、お前だったらどこにいたって分かる」
あっそう、全く感情を持たない声でそう答えた彼女が傘を少しだけ動かして、足の甲に視線を落とす。傘の持ち手が、それを掴む小さな手が、雨のベールに包まれたかのように湿り気を帯びている。
小さい鞄が雨に濡れてしまわないようにと身体で抱きしめるようにした後で、傘がぶつからないようそっと隣に立った彼女がちらりとこちらを見た。
ぽつぽつと出来ている水溜りを避けるようにしながら、ゆっくりと足を踏み出す。傘の所為で生まれてしまう彼女との距離に酷い違和感を感じながら、俺は何度も新品の傘の持ち手にかかったビニールを引っ掻いた。
俺の斜め一歩後ろを着実に歩くやけに無口な、いや、雨音の所為で話すことを諦めているのかもしれない彼女の存在を見失わないように真っ直ぐ目的地へ俺は歩く。雨の音がいつの間にか弱まっている、と気付いたのは、歩いて少しした頃、彼女が俺の隣に並んだからだった。
「寒いね」
「寒いな」
「蓮くん、」
「ん、もうちょいで着くから」
「そうじゃなくてさ」
「何?」
「……なんでもない」
鞄を抱きしめるのをやめた彼女の傘が俺に少しだけ近寄って、また少しだけ離れた。
傘のせいか、彼女が下を向いているせいか、やけに感情の読めない彼女の耳に下がった小さな石を俺は黙って見つめる。
大通りの道が少しだけ賑やかになりだして、傘を畳む人がちらほらと見える中で傘に当たる雨音はまだ大きい。目的地までの道のりは俺の頭の中にしかなく、こっち、と右を指す声が聞こえていないまま、真っ直ぐに進もうとしている彼女の腕を軽く引くと、やっと彼女の目が俺を映した。きちんと化粧をしているはずなのに、家で見るすっぴんの姿よりもなぜか数段に幼い顔を見た瞬間に、時間が止まるのが分かった。
蘭子はいつも俺の目を見ては大きいだの、わたしがはっきり映っているだのと、楽しげに家で話すけれど、彼女の目にも俺は確実に映っているのだと気が付いているのだろうか。彼女の呼ぶ蓮くん、という声に見合った俺が輪郭を持ってその場所に存在しているのか、たまに不安になるほど、つるりとした深い茶色の中に存在する俺は、酷く真面目で常識人のようだ。
ぽつん、ぽつん、とカウントを取るようにゆっくりと傘に落ちる雨の音を何度か聞いた後で、冷え切った自分の手を彼女の腕から離すことをやっと思い出す。雨を吸い込んだように冷たい上着と、自分の手の温度は同じか、些か俺の手の方が冷たいくらいだった。
「見つけてね」
「なにが」
「わたしがどこ行っても分かるんでしょ」
「……どっか行くのか」
「行かないけど、見つけてね」
「不吉なこと言うなって」
「そういう意味じゃないのに」
「さっきの、嬉しかったから」、彼女の黄色い傘が揺れて、腕が伸びて、俺の手首を彼女の手が掴んだ。俺の手よりずっとずっと冷たい氷のような、そして同じくらいに小さい手。
冷たいことよりも、その勇敢な手の動きみたいなものに俺はどうしてか動けなくなって、ただ足を止めてしまう。黄色い傘の下で、その後の言葉を探る彼女のてっぺんから足元まできっちりとしたその姿の、どこかの淡いような感じ。
「見つけるけど」
「うん」
「離れるのは違うからな」
「離れませんよ、蓮くんが言わない限り」
「言うか、そんなん」
彼女が傘を持ち直すために俺の手首から、手を離すと、外気がその場所だけをいやに包むけれど、その感触が今だけは不快ではなかった。
俺は使用時間二十分にも満たないビニール傘を畳んで、くるりとボタンを留める。留められた傘が真っ直ぐに水をアスファルトに落としていく中で、その傘を手首にかけたまま、反対の手で、黄色い傘を俺は掴んだ。左側にあった筈の傘が俺と彼女の間に移動するさまを、首を真っ直ぐ上に向けて眺めている彼女の間の抜けた顔を俺は視界に入れてしまい、つい笑みが零れた。
ぽつ、ぽつ、と、先程よりずっと間隔が空いて聞こえる雨音は、傘をひとつ、人はふたりにするだけで、やけに大きく聞こえる。
「何笑ってるの」
「いや、めっちゃ口開いてたから」
「だってびっくりしたから」
「こんなことでいちいち驚くか」
「傘飛んだのかと思った」
「バァカ」
傘を持つ俺の腕にゆっくりと片手を乗せた彼女が、急に肩をぴくりと動かして俺を見た。子どもじみているわけでも、間が抜けているでもない、見慣れたハシバミ色の目。
袖口を少しだけ降ろして素早く腕時計を見たあとで見上げるようにして俺を見て「予約の時間何時?」という声。俺の答えを理解しきっているらしい彼女は、その上で、声は今日聞いた中でもとびきりに楽しげなものだった。
「間に合う、もうすぐだし」
「間に合っては無い」
「いちいちうっさいな」
「蓮くんもばか」
「はいはい」
布越しでもぼんやりと伝わる彼女の手のひらの感触を味わったまま、軽口を叩いて進む足取りは軽い。靴に伝う雨の滴も、アスファルトに残った水溜りの事も、黄色い傘の下にある全ては、単純に眩く存在している。
「早く行こう」、誰のせいで立ち止まって話していたのか分かっているのか分からない程、一語一音が満ちた声が俺の隣で響いた。彼女の歩幅に合わせることを意識しながら、平衡を保って傘を持ちながら、それでも目的地へ急ぐ。
時間を気にしているわけではなく、彼女の瞳に映る俺を正面から確かめるために、冷えた彼女の身体を温めるために。
それが些末な理由ではなく、俺にとってかなり重要な理由であることを、本当は出会った時から分かっていた。