コンビニから出てきた登馬が手に持っていた大きいサイズのドリップコーヒーが苦い匂いを漂わせていた。
大きな背中を丸めてミルクを入れてかき混ぜていた登馬の後姿を自動ドア越しに見つめていたことは言わないまま、わたしは歩き出す。彼がわたしに追いつくことなんて簡単だから、ということがもう当たり前になってしまっているのだ。
コーヒーの香りと一緒に登馬がゆったりとわたしを追いかけて、すぐに隣にやってくる。小さな飲み口にくちを当てながらぼそり、と「飲み切れるか」と疑問系に近いニュアンスで呟いた。
「蘭子も飲むか」
「いい、苦手なわけじゃないけど飲むと調子悪くなるんだよね」
「それ、結局は苦手ってことだろ」
「違う」
「いいんじゃないか、別に、飲めないからって子どもなわけじゃない」
暗にそうだ、と言われているような気がして歩みを速めると、コーヒーを飲みながら彼がわたしの手をそっと取る。簡単に、一瞬で彼に手綱を取られて、また歩調が緩まってしまう。
本当は猫舌でそんな出来立ての飲み物をちいさな飲み口で飲むことも困難だと言ったら彼は気にすることないと笑うのだろう。かわいい、とも、かわいくない、とも思わない声で笑う。
登馬の全部どうでもよさそうな顔がわたしは好きで、でもちゃんとどうでもよくないことが幾つもあるところも好きだ。
昼と夕方の境目の中で、まるで縁側でお茶を啜るかの如く静かに、登馬はコーヒーを飲んで、白い息を吐く。美味しそうに見えるけれど、香り自体がそのまま味に直結しているせいで飲みたいという気持ちは微塵も湧いてこない。お酒を美味しく飲むことだとか、コーヒーを美味しく飲むことだとか、そういうのはある種才能なのかもしれない。
どれくらい減ったのか分からないまま、たまに白いプラスチックの飲み口に口をつけたあと苦い息を吐く彼の顔を見上げながら思った。冬が残った冴え冴えとした暮れる空を眺めていると、ただの道が、どこかの特別な場所の果てのようだった。
革ジャンの下に着た登馬がお気に入りでよく着ている、目の細かい白いニットがちらりと見える。もう少しでそのニットやジャンパーも次の冬まで見納めになってしまうのだろう。きっちりと白いニットの首元の丸さや、首筋のはっきりと浮かぶ青白い血管をなぞる様に、名残惜しむように見た。見詰められているのが分かっているみたいに喉が動いて、また彼が飽きずに、懲りずに、コーヒーを飲んだのだと分かった。
「どれくらい飲んだ」
「半分は飲んだ」
「早くない」
「急いで飲んでる」
「なんで」
「蘭子、なんか苦いって顔してるし」
「してない」
「じゃあ、飲むか?」
「飲む」
手を差し出すと、登馬がわざわざ反対に持っていたコーヒーを更に遠くへ遠ざけるように腕を伸ばした。「まだ早いな」と言う彼の声が、やけにちゃんとした大人に聞こえて、わたしは小さく丸まってしまいたくなった。コーヒーが飲めないからではなく、意固地になって、登馬にあしらわれてしまう自分がとても子どもじみているようで。
付け足すように「これ砂糖入れてないしなぁ」と登馬が言って、またぐびり、と喉を動かして勢いよくコーヒーを飲む。砂糖があってもなくても飲まないことを知っている登馬のフォローがまたあたたかくやわらかく、わたしは視線を道に落とす。
ふわふわ、ゆらゆらと、まるで煙草の煙みたいに続いていくコーヒーの香りが美味しいと思わないことはずっとそうだ。けれど、コーヒーの香りも彼が当然のように手に取り愉しむものであるというだけでわたしにとっては特別な意味を持っている。
スティックシュガーを二本、ミルクも入れたコーヒーにたまにチャレンジして、毎回失敗していることを登馬は知らない。知らなくていいし、言うつもりもなく、ただ合わないな、と思いながら、わたしはまた一人でコーヒーを注文するだろう。紅茶の方が、オレンジジュースの方が美味しい、とかなんとか思いながら。
「飲まないから、ゆっくり飲みなよ」
「でも邪魔だろ」
「それはどうにもならない」
「やっぱ小さい方にしとけば良かったな」
「なんで大きいのにしたの」
「なんとなく」
「じゃあしょうがないね」
わたしがそう言うと、登馬はふっ、と堪えきれないみたいに笑ってから「しょうがないな」と答えた。
沈みゆく太陽はすっと切れ込みをいれたみたいに紺色の空に溶けだしている。
二人で繰り返し、しょうがない、しょうがないね、と言い合っていくうちに、コーヒーの匂いは薄れていく。
登馬が空いている手で珍しくわたしの手を掴んで、また「しょうがない」と言った。なにがしょうがなくて、なにがしょうがなくないのか分からないまま、わたしはその手を握り返す。
とろりと溶けていく太陽が夜と雲に飲み込まれていくさまを見届けながら、わたしたちはただ、ゆっくりと歩いていた。