千夜一夜の掃き溜め



 いつもより早く眠る支度が整ったというあたりで携帯が震えて、そこに浮かんだ名前を見たオレは迷いなく通話のボタンを押した。けれど、耳に流れてきた声はいつもの、いや予想していた声よりずっと高く、尚且つ、余所余所しい声で「あの、蘭子の彼氏さんですよね」と先ず確認したのだった。
 当惑を声の全てに縫い込んだような蘭子の友人の声は、「皆で飲んでたんですけど、急に潰れちゃって、なんか、眠い眠いって言って寝ちゃって、とりあえず送ろうと思ったんですけど、蘭子が登馬くんに電話するって言い出したから、一応聞いてみようって思って、すみません」と丁寧に前置きと分かりやすい説明をした後で「蘭子のこと、迎えに来てくれたりって難しいですかね」と付け足した。
 オレは「今準備して向かいます」と、場所の確認をせずに答えていたけれど、多分それが宇宙の果てでも行っていただろう。
 オレは蘭子とまだ一緒にいるという心優しい友人の話を聞いて電話を切ったオレは洋服に着替え、車の鍵と財布を掴んだ。頭の中で地図を組み立てて、あと何分で先程言われた店の場所まで行けるのか考えながら家の鍵を締めるがちゃんという鈍い音を耳に残す。
 偶然なのか、唯一ラッキーなことは彼女のいる店がオレの知っている店である、ということで世間はあまり広くないらしい。理由は分からないけれど、彼女が酔いつぶれてしまったことに何も理由がないとは思えなかったし、行くことができないと電話を切る理由もオレには無かった。
 時間と道がうまく重なったお陰で空いている道路を法定速度ギリギリのスピードで進んでいくと、身体が浮くような錯覚を覚える。
 一人で車をこんな風に誰かの為に飛ばすなんて、昔は考えたこともなかった。帰り道は寝息を立てている彼女が今現在空席の場所にいるのか、と助手席に視線をやるだけで少しだけ、身体の浮遊感が消える。彼女の存在は現実で、今の嘘のような時間も、きちんと現実であることを、時たまオレは忘れてしまう。
 少しずつ信号の増えた道の奥へ入っていくと、唯一明るくなっているその店の横に車をつけた。車のロックを確認した後で、二度ほど足を踏み入れたことのある店の奥の五、六人でちょうどの広さの席で、見たことのない人がオレを見る。ぱっと瞳が明るくなって、隣でくたくたになった蘭子がその女性の影からだらりと出てきた。蘭子はまるでその女性を彼氏か何かと間違えているかの如く、細い腕をがっちりと掴んだまま、すうすうと寝息を立てている。

「夜分にすみません」
「や、オレこそ、迷惑かけてすみません。こっちで引き取るんで」
「良かったです、このまま蘭子引っ張ってタクシー乗るのかと思ったらヒヤヒヤしました」
「えーと、」
「わたしも彼氏に迎え頼んだんで、お気になさらず。あとの人もみんな帰しちゃっただけですし」
「分かりました。……またこの事は改めてお礼させて下さい」

 すいすいと出てくる言葉と比例せず、彼女は腕を掴んだまま離そうとしない。「登馬くん来たよ、登馬くんだよ」と目の前の女性が言うその「登馬くん」という声の響きが蘭子にそっくりだった。どうしてかと言えば、多分彼女がオレの話をした時の呼び名を、そして響きを忠実に再現しているからで、傍から聞くとこんな感じなのか、とそんなことにもオレはシンプルに驚いた。
 薄く目を見開いた彼女の手が緩んだ瞬間を一切見逃さない姿がまるで釣り師かなにかの様で、自分の役目を一瞬ばかり忘れそうになる。同じ女性とは思えない程てきぱきとした動きと力で彼女の両脇に腕を入れて立ち上がらせたあと、「ほら登馬くん」とまた彼女の耳元で囁くと、やっと蘭子は薄目を開けて、オレがいることを認識した。そこからは直ぐで、元々大きな彼女の双眸が更に大きく開かれて、「登馬くんだ」と言って、一輪の花が開くかのように子どものような笑みを浮かべる。
 本当であったらこんなに酔いつぶれて迷惑かけて、とこんこんと話をしたいものの筈が、「来たぞ」とどうしてか甘い声が喉から出てしまう。出してしまってから、ここが店内であることや、車を外に停めっぱなしであるという事実を思い出して、背筋に氷を落とされたような感覚が襲ってきた。
 じゃああのすみませんと、先程と火力の異なる所在なさげな声を自分で出していると理解しながら、オレは彼女を連れて店を出た。当たり前のことながら車は店の横にあり、助手席に彼女を座らせてシートベルトをつけてやるまで別段アクシデントは起きなかった。できたらこの店でオレが誰かと飲むことがないといいけれど、と祈るような気持ちで自分のシートベルトを付けた後、車を発進させる。
 ライトが灯り、また細かった道を戻りながら、帰りは少しばかり速度を落とすべきだろうか、と考えながら。

蘭子?」
「……はぁい」
「ちょっとは酔い醒めたか」
「……ん」
「水とか、なんか買った方がいいか?」
「へいき」

 シートベルトをかちゃかちゃと言わせた彼女が膝の上にいつも置いてある鞄がないことに気付くであろうと先に「鞄は後ろ」と伝えると、また空気が抜けたかのようにぐたり、と背中を凭れさせる。
 店を出た時点でちゃんと気付いていたのだ、それなりに彼女が歩けることも、やけに酔っていることと所在なさげに俯いていることも。目を見開いたあの瞳にオレが映った瞬間から、喜びと同時にいつ叱られるかと戦々恐々としているのだ。
 もしも立場が逆だったら、オレも同じように一気に酔いが醒めるだろう、と考えて、もうその時点でオレに怒るという選択肢が存在しないのだと分かる。
 車を店に向かって走らせている間は、幾何かの怒りというか、ここできちんと釘を刺しておかねばまた同じことが起きかねない、という親心にも似た気持ちが存在していた筈なのに。店でオレを見て、「登馬くんだ」と花開く様に笑ったあの顔を見た瞬間にオレのそういった親心は全て吹き飛んで、結局、甘やかしてしまう。いや、そもそもこれを甘やかすと言っていいのだろうか、何年も付き合ってきてこんなことは初めてだったわけだし、疲れが溜まっていたり相手が気の置けない友人だったり、色々な理由が重なっただけなのだろう。
 かちゃかちゃ、未だに鳴っているシートベルトの音も、鞄がないせいで余計に所在がない彼女がひたすらに触っているのだと想像がつく。まだ眠りたいのか、気持ちが悪いのか、すっかり醒めたのか、分からない単純な沈黙を破ったのは彼女の謝罪の言葉だった。

「……ごめんね」
「それ、あの一緒にいたよく出来た子にも言っとけよ」
「うん。お礼渡さないと流石にまずい」
「流石に出来すぎてびっくりしたわ」
「……なんて言ってた」
「なんか、自分も彼氏が迎えに来るんで気にすんなって、あと、他の人も帰してたし」
「そう」

 こんなにも脱力した状態で、虚空を見つめている蘭子を見たのは初めてかもしれない。ぼんやりと、フロントガラスの光と闇をありのままに瞳に映したまま、「初めてかも、こんなこと」と呟いた。その後、付け足す様に「初めてだからって許してもらおうと思ってないですけど」と付け足した。
 許すも許さないもない、ただオレが迎えに行っただけだ、ただ少し帰るのに困難な足取りと時間の彼女を。ありふれた日常の一コマに過ぎない、ありふれた思い出の1ページにもならないようなたった一晩のことだと、どうしたら伝わるだろう。
 いつものオレならば、こんな風に思う筈がなく、自分でもハンドルを握る手がふわりと彼女の髪を撫でてしまいそうで、また車のスピードが上がる。

「オレんちでいいか」
「ごめん、ほんと、全然大丈夫」
「絶対嘘だって言うと思うけど先に言う」
「なに」
「怒ってないぞ、オレ」
「……嘘だぁ」
「いや本当に。顔見たらわかると思うけどな、もうちょいで着くし」

 広い通りを抜けて車が走り慣れた道に少しずつスライドしていく中で、「嘘だぁ」と上げた彼女の子どもじみた声が、またオレの唇を緩める。今日はどうしてか、甘くなってしまっていけない、いや、いいのだろうか。
 結局、有能な彼女の友人のお陰でそこまでの迷惑をかけたことにもならず、本人も反省している、オレが小言じみたことを言う必要性は無い。いつもならそれでも口を吐く筈の「もうちょっと気を付けた方がいいんじゃないか」「ちゃんとしろよ」だとかいうような説教臭い言葉も、それをフォローする「まぁ、反省してるのも分かるけどな」「初めてだし、話せることがあるなら話せ」だとかそういう言葉も、そもそも小言が存在しないので必要がないのだ。
 こう、自分の頭の中を幾つものピースをくっつけたり離したりして、それらしいことを言っているけれど、結論が一つしかないのも、夜の道を走る中で明らかになっていた。暗い道を走る、というのは頭の中を鮮明にさせる行動でもあるのかもしれない、道が空いていた分、更に。

「登馬くんだ、って」
「え?」
「お前、最初にオレ見て言ったの、覚えてるか」
「……多分、夢か幻かって感じだけど」
「あれで、全部許した」
「どういうこと」
「これでこの話終わりな」

 一分はゆうに時間を使った彼女が「どういうこと」と言ってもオレは答えない、答えようがない。わざわざこんなことを言ってしまっただけでも、正直蛇足でしかない筈なのに、きちんと酔いの醒めた彼女がオレの今の言葉をきちんと突き詰めたら、最後の最後まで理解してしまうと分かっていて言ってしまった。
 子どもじみた、だとか、花が咲くような、だとか、そんな表現では生ぬるいのは、手垢にまみれた王道の表現だからではなく、正確ではないからだ。正確な表現は目の前で起きた映像と、同じく立ち上ってきた感情が全てで、言葉にすることはできない。
 それでもオレは愚直にも、自己完結するために、整理するために、言葉を探すと正確でない手垢にまみれた王道の表現よりずっとありふれた言葉が一番しっくりきた。
 ただオレを見て蘭子が想像以上に幸せそうに笑ったから、これ以上でもこれ以下でもない。
 いつもの手癖で車をマンションの駐車場に黙々と押し込んだ後、いつの間にか寝息を立てている助手席の彼女に目を向けた。怒っていないという言葉を空気間で理解して、その理由を考えているうちに寝てしまったのだろう、と手に取るように分かる心境にまた唇が緩むのを抑えることができない。
 先程明るい店で見た時よりもずっと幼く見えるその寝顔にオレは手を伸ばし、やけに艶やかな髪の毛をさらりと撫でる。指先のその感触が、多分、店で彼女を拾ってから一番求めていたもので、許すでも許さないでもない、とまた心が呟き、オレは何も知らないような顔で、彼女の名前を呼んだ。
 さらりと指からすり抜ける髪の毛の感触と、変わりに彼女がオレの手を掴んだやけに汗ばんで生ぬるい感触が同時にやってくる。
 聖人君子でも彼女の母親でもないオレは、すっかり全てを許していて、その小さな手を掴んだまま、アルコールの残るその唇を自分の唇で塞いでいた。