彼の部屋はいつも違う匂いがする、事実いろいろな香水やインセンスの類を所有している彼の部屋は、まるで朝昼晩で色が違うようだ。
いつも登馬くんに怒られてしまう、最後まで乾かしきらない少しだけ濡れた毛先を弄びながら、ただぼんやりと登馬くんがお風呂から戻ってくるのをじっと待っていた。冬に包まるお布団のようなやさしく、主張は強くない、それでもはっきりと存在している香りを嗅ぎながら。
彼の家でお風呂を借りると、いつも同じシャンプーの匂いやボディーソープの香りがして、そこで漸く彼の家に来たな、という実感がわく。見慣れた家具の配置でも、景色でも、座り心地の良いソファでも、わたしのために用意されたグラスでもなく、他でもないシャンプーの匂いで。先程自分の髪の中で泡立ったそれは沢山のお湯で洗い流し終えても、きちんとその香りが残っている。少しでも強く匂いを感じようと湿った毛先をつまみ上げて鼻をそっと近づけるたところで、やけに丁寧に、やけに静かに扉を閉めて、寛いだ服装の登馬くんがまるで子どもみたいにわたしの所へやってきた。一言目、もう何を言われるかはすっかり分かっているけれど、わたしは何も知らないような顔で彼を見上げる。
「まぁーた、最後まで乾かさずにいるだろ、風邪ひいても知らねえぞ」
「一応乾かしたよー、これでも」
「もう寒くなってきたのに、あぁ、何回言っても直らんやつだな」
「あ、」
ふうわり、登馬くんがわたしの所へ座ろうとしたあとで、多分ドライヤーを取りに行くのだろう。その踵を返した後姿に向かってこぼれ出た声と一緒に、自分の手が彼の服をしっかりと掴んでしまっていた。勇敢な子どものように力強く掴んだ指先とは裏腹に、どうしたのかと言いたげな彼の瞳に答える術が見当たらない。ただ、きちんと乾かされている登馬くんの髪が、身体が、わたしと同じ匂いだったような気がして、我に返った時には掴んでいた。そんな当たり前の今更すぎることを、どうして今日ばかりは果敢に彼の服を掴み、引き留めたのか。ベッドルームでは別の香りが、朝起きれば香水を纏った、いつも違う香りをさせた彼が、今この瞬間はわたしと同じ香りを纏っている。ぎゅっ、と掴んだ指先が離れていくよりも先に彼はわたしの指先をそっと剥がして、すとんと隣へ腰かけた。
「怒りすぎたか?」
「ううん」
「どうした、そんな顔して」
「とうまくん」
いつの間にか寄っていたらしいわたしの眉間に指先を押し当てて、登馬くんがゆったりと笑ってみせる。ニュートラルで険しいというか、厳めしい顔をしている大好きな彼の珍しい微笑みは木々のせせらぎのような穏やかさを思わせ、薫り高いウィスキーをグラスで揺らす様によく似ている。かと思えば、遊園地の玩具か駄菓子を前にしたかのような子どもじみた笑顔も見せるから、いつもわたしは新鮮に戸惑ってしまう。年上の彼にいつも包み込まれているような気がしているけれど、そのくせ、可愛くだって笑えるのだからたちが悪い。今は年上の彼氏然としたきっちりした顔で、わたしの隣に腰かけて、少しふやけた指先でわたしの髪を漉いてくれる。
「折角綺麗な髪してるからな」
「ねえ」
「……ん?」
「今、登馬くんとおんなじ匂いしてる、わたし」
「当たり前だろ、風呂入ったばっかだし」
「そうだけど」
「なんだ。嬉しかったか?」
忘れていた。そういえば、こうやって、子どもじみた、人間じみた、にぃやりとした唇の歪め方もこの人はするのだった。
「嬉しかった」、勇敢な子どものように自信を持ってしまったわたしは、はっきりとそう返答すると、彼はわたしの首筋に添う様に何度も、乾いているとは言い難い髪を流しながら触れてくれる。お風呂上りにしてはあたたかくない彼の指先と、ふやけたけれどちょっとだけ長い彼の爪が首筋を撫でた。猫でも撫でているような気分なのだろうか、薄目を開けると登馬くんは、わたしよりも目をそっと細め、微笑ましさを内包した心地よさそうな顔をしている。一度、彼の指のささくれが首筋に引っかかると、痛くもなかったはずなのに反射的な身体の動きだけで察した彼は「悪い」と言って、引っかかった部分を人差し指の腹でそっと撫でてくれた。痛くないよ、きもちいよ、と声に出すと、それは思ったよりもかぼそくて、部屋がいつの間にか夜の匂いになっていることに気付く。
「……夜だね」
「髪乾かして、寝るか」
「名残惜しいな」
「眠くなってるくせに」
「……あと、乾かすの、ちょっとめんどくさい」
するりと首筋にかかっていた指先が離れて、登馬くんはソファからいなくなる、「待っとけ」という言葉を残して。きちんと配線されたコード、幾つか余っているコンセントがテレビの端に繋がっているのが見えた。
それからすぐに、わたしの手には重い、髪に良さそうな温風やマイナスイオンを出す大きな黒いドライヤーを携えた登馬くんが現れる。彼が持つと変な、格好の悪い武器みたいだなぁ、と思いながら、登馬くんが余っているコンセントにドライヤーのプラグを差し込んだ。彼の目線が一度クッションにいったような気がしたわたしがそれを二つ手渡すと、一度軽く目を開いたあと、ふっと彼は笑った、納得したような、満足げな顔で。
ひとつを自分の背に、もうひとつを自分の前に起き、ぽんぽんとそこへ座るように促し、彼はさっさとドライヤーにスイッチを入れる。ぶぉぉぉぉと、数時間前に聞いた音が、クッションに座っているわたしの髪を巻き上げながらまた響いた。
登馬くんはドライヤーの音の合間に何かを喋って、でもそれはわたしに聞かせるものではなかったのか、酷く小さく、わたしの耳では拾うことができなかった。きっと人の髪にドライヤーをかけたことなどないはずの彼がやけに丁寧にわたしの髪を乾かすそのゆったりとした時間と、改めて立ち上るシャンプーの匂いにそっと目を細めた。
彼に触れられていたあの瞬間とよく似た心地良さが、温い風と冷たい風と彼のふっくらとした指先が与えてくれる。風で散らばった毛先が急に重力に従って、黒のドライヤーが重々しくフローリングに置かれる音。こんなところで乾かして、部屋の掃除は手伝った方がいいのだろうか、と一瞬の静寂の中で考えながら、身体を彼の方に向けようとすると、そのまま後ろから彼に抱きすくめられた。
「マジで同じ匂いする」
「……そうだよ?」
「さっきはあんな嬉しそうな顔してたのに、」
「してない」
「してた、とうまくん行かないでーって顔」
「それはした」
彼がわたしの耳元に唇を埋めて、くくく、と小さく笑い声を零した後に「やっぱりしただろ」と子どもみたいに笑った。
駄菓子のような、淡くて、甘やかで、チープで、でもキラキラした笑い声が、いつの間にか上がっている彼の身体の温度が、身体すべてに染み渡る。
不慣れな彼が丁寧に乾かしてくれたぶん、髪の毛の散らばっているフローリングで、登馬くんはわたしをただ抱きしめていて、同じ匂いがしているわたしたちは未だにくっついていて、あともう少しは離れることはないまま、正しく夜は更けていく。