深夜一時に震えた携帯電話には見慣れた名前が表示されていた。わたしは小さく舌打ちをして、見ていた映画を一時停止する。女優の顔がアップで映るシーンで止まって、部屋には安っぽい携帯の着信音だけが響いた。面倒な予感がしたので数コール分置いてからしぶしぶ電話に出たけれど、電話口の声は聞き慣れた彼の声ではなかった。
『あ、もしもし、』
「……どなたでしょう」
『これ犬上の携帯なんですけど、佐狐です』
「ああ、お久しぶりです」
『えっと……たいへん言いにくいんですけど』
佐狐さんからの電話と言う時点で、なんとなく粗方の事情は察知できた。一緒に飲んでいた照臣が、酔っ払って動かなくなった、らしい。電話に出てしまったことを軽く後悔して、でも前回彼の前で年甲斐もなく号泣してしまったことを思い出す。借りを返す、チャンスだった。
「そのへんに捨てといてもいいですけど」
『なんか落ち込んでるからそうもいかないんですよね』
「はあ……」
『そっち行くって言って聞かないんで』
「……わたしのマンションの前にでも捨てといてくれれば、拾っておくので」
『なんかすみません』
「こちらこそ」
電話を切って一時間もしない内に照臣はやってきた。一目散に寝室の整えられたベッドにダイブして、んー、とそこそこ大きな声で唸っている。近所メーワクだから、と伝えると、ん、ごめん、と素直な謝罪が返ってきた。
「お酒控えるとか、言ってませんでした?」
「言っ……たかもしれない」
「水飲む?」
「今日やさしー」
「……これで貸し借りなしだから」
この前、引っ越しの片付けで久々に昔のアルバムを開いたら照臣が隣に写っている確率があまりに高すぎて吐き気がした。だいたいわたしはムスっとカメラを睨むように写っていて、隣の男は何が楽しいのか知らないがヘラヘラと笑っていた。
青いグラスのコップになみなみと注いだ水を渡すと、彼は充血した目でぼんやりとこちらを見た。無駄に綺麗な手が伸びてコップに触れる。
「このまま引っ張ったらどうなる」
「こぼれる」
「おれはもうこぼれてる」
「何言ってんの」
「何言ってんだろーね」
コップに触れた手は、そのままするするとわたしの手までやってきて、わたしは何も言わず、その様子を眺めている。充血した、少し鋭くて、でもひどく優しい瞳の中のわたしは、きっとあの頃と同じように、可愛げもなくムスっとした顔で立ち尽くしているのだろう。
こぼれてるってなにが、なんだとおもう、もう酔ってないでしょ、どうかな。吐き出された言葉は、部屋を埋め尽くす生温い空気に溶けて消えた。わたしの右手におさまっていたコップは、気がつけば彼の口元にあって、一瞬で飲み干されてしまう。空のコップを受け取ろうと伸ばした腕を引っ張られて、わたしは簡単にベッドの上に倒れこんだ。
「ちょっと、」
「んー」
「……酔った勢いとか、面白くないよ」
「わかってる」
「わかってない」
「じゃあ……オレが朝まで我慢できたら、付き合って」
わたしたちを引き離していたのは、近すぎた距離なんだと思う。ずっと手の届く場所にいて、なのにずっと遠かった。わたしがしばらく間を置いて、まじ?と聞くと、だからこぼれてるって言ったじゃん、と彼は困ったように笑う。その顔を見て、わたしも、もう随分と前からこぼれていたのかもしれない、と思った。いつから、と聞かれれば、今から、と答える他ないけれど。
「おやすみ」と言って、わたしに背を向けるように眠る。わたしも空っぽになったコップを洗い場に置いてから、ベッドの残り半分に潜り込んだ。一人用にしては少し大きいベッドの端と端で丸くなって、昔よりがっしりとした背中を視界に捉えながら、じわじわとやってくる眠気を受け入れていく。
綺麗に切りそろえられた襟足に少しだけ触れると、まだ起きていたらしい照臣が、我慢できなくなるからやめてよ、と背中越しに呟いた。わたしはただおやすみとだけ返して、きっと変わっているであろう明日からの世界に思いを馳せる。