心臓から一番遠いこの愛に



 恋人に振られた女を慰めにきた幼馴染の男というシチュエーションで、甘い想像をしてはいけない。ましてやわたしとこの男に於いては。自分が食べたいだけだったらしいケーキをわたしの分まで平らげて、テレビを見ながらへらへらと笑っている男に、わたしは思い切り不快な顔を向けた。甘え上手かつ人当たりの良さでなんだかんだモテてはいるようだけれど、小さい頃から見てきたわたしからしたら、こいつはノンデリだしもっとかっこいい人はいくらでもいるぞ、という感じだった。

「え、てかマジで全部食っていーの?」
「わたしが甘いものきらいって知ってて買ってきたよね」
「まあそうなんだけど」
「まじでなにしにきた」
「いや、慰めに?」

 本人が疑問調な時点でもうそれが目的であるとは到底思えないわけだけれど、そこそこ重めなケーキを二人分平らげて幸せそうな顔を浮かべる照臣を見たら、文句を言う気も失せた。
 数日前、わたしの恋人であった人は、お前はオレがいなくても大丈夫じゃん、と言って出て行った。三十歳を過ぎてからの失恋はあまりにも辛いと友人は言っていたけれど、実際自分の身に降りかかってみると、別れた次の日にはこの部屋の解約のことを考えていたのだから、わたしは確かに薄情なのかもしれない。

「明日早いんだから帰れば、ってか、帰れ」
「なにー?冷たくね?」
「平常運転ですが」
「慰めにきたのにー」
「引っ越しの手伝いは頼んだけど、慰めはいらないので」
「相変わらず冷たいなー」

 なーネネちゃん、と足元にごろりと横たわる猫を抱き上げる。ネネはわたしが実家から連れてきた猫で、実家にいたころからやたらと照臣に懐いていた。猫に好かれるオーラを発しているのか、自分と同格だと見られているのか、答えはおそらく後者で、本人は遊んでやってるみたいな顔をして遊ばれているので見ていて飽きない。
 小さい頃から、よく笑ってよく泣いて、素直で天真爛漫の権化みたいな照臣と、感情表現が薄くて人付き合いもあまり得意ではなかったわたしは本当に絵に描いたように真逆な子どもで、それでもなんとなく、所謂腐れ縁というやつで一緒にいることは多かった。

「なー、覚えてる?中学のときさ、」
「覚えてない」
「まだなんも言ってないんだけど」
「なに」
「竹田先生が亡くなったときさ、みんなピーピー泣いてたのに、ちとせだけ何事もないみたいに手紙読んでて」
「……薄情だっていいたいの、」
「かっこいいって思ったんだよなー」
「へえ」
「でもほんとはさ、泣き方知らなかっただけでしょ、あの時も、今も」
「え?」
「オレが変わりに泣いてあげよーか」

 そう言った照臣はすでに目元を潤ませていて、なんであんたが泣きそうなの、とわたしは笑った。思えば、わたしが最後の大会で負けた日も、母親が盲腸で入院した日も、なぜか照臣が泣いていて、わたしはそれを見て笑っていた。
 お前はオレがいなくても大丈夫じゃん。恋人だった彼の、最後の言葉を思い出す。素直に泣いたり笑ったりできていたら、何か変わっていたに違いない。けれどわたしはもう遠い昔に、悲しさや寂しさの引き出し方を忘れてしまった。

「……あー、婚活パーティでも行こうかな」
ちとせそういうの嫌いじゃん」
「もう嫌いとか言ってられないっしょ」
「昔はオレと結婚してくれるって言ってたのになー」
「言っ……てないし、早く帰れ泣き虫」
「素直じゃないんだからー」

 携帯で時間を確認して、まあまた勝手に来るわ、と言って立ち上がる。羽織ったオレンジのスカジャンをかっこいいねと褒めると、やっとオレの魅力に気づいたかー、と笑った。そうだね、とだけ返して空になったケーキの箱を潰すと、中に入っていた保冷剤がわたしの手を冷たくする。じわじわと、心の中まで冷たくなる。あれ、この気持ち、なんだっけ。
 玄関に続くドアから出て行く背中に、わたしは瞬時に「待って」と言った。言ったつもりはなかったけれど、荷物が半分になった部屋にはわたしの声が確かに反響していたし、照臣も、ネネも、驚いたようにわたしを見ている。

「え、ちょっと、なんで泣いてんの」
「……泣いてません」
「泣いてるし、なに、おれ?」
「わっかんないよばか」
「お前が泣いてるとこ初めて見たかも」
「うっさい、見ないで」

 なんで急に女の子なの、と困ったように笑う。わかんないけど、こうなっちゃったんだよ、とわたしも笑ったけど、うまく笑えていたかは分からない。
 そういえば、前の恋人が言っていた。男と女、好きにも嫌いにもならないで二十年いれるなんて、おかしいよ、なんて。でもこうなっちゃったんだよ、好きか嫌いかなんて分からないけど、わたしの代わりに泣いたり、笑ったり、気付いたら隣にいたんだよ。

「ぎゅーとかしたら、怒る?」
「怒る」
「じゃあしません」
「……胸だけ貸して」
「ん、りょうかい」

 おいで、という優しい声に、わたしはおでこを勢いよく胸のあたりにくっつける。うお、と声をあげた照臣の、行き場をなくした左手がわたしの髪を撫でた。調子のんなよ、という言葉が出かかって、でもまあ今日はいいやと仕舞いこむ。あたたかい体温からは、なんだか懐かしくて、優しい匂いがした。