※特典4弾冊子ネタあり

眠れない千夜の為に



 季節の変わり目だからなのか、やけに雨が多い。
 窓に打ち付ける止むことのない雨粒の音をカーテン越しに聞きながら、テレビの音量を少しだけ上げた。朋也も真面目に見ているわけではないのだろうけれど、部屋をすべて包むような座りどころのない沈黙を誤魔化すために。
 昼でもなく、夕方でもなく、そんなぼんやりとした、境目の分からない時間は一番瞼が重くなってしまう。
 その前の話も、そして後の話を見るわけでもない再放送のドラマは進んでいく。すれ違って入れ違っているあたりを見ると、ドラマ自体は佳境らしい。このドラマを見終わったら少し早いけれど夕ご飯の準備でもしようか、考えながら大きく欠伸をした。
 ざぁぁぁ、また更に強く雨は降って、足元がうすら寒いような心持ちになる。
 朋也がちらり、とこちらを見て、目を離した後に、堪えきれないように薄い唇を開いた。元からリップクリームの類は好いていなかったけれど、煙草を吸うようになってから殊更に口元が乾燥しているように見える。

「でかい欠伸だな」
「正直眠いよ」
「寝ればいいだろ」
「寂しいでしょ」
「寂しくねえわ」
「わたしが寂しい」

 朋也がハッ、とわたしの言葉を鼻で笑ったあと、つるりとした携帯を撫でて、テーブルに滑らせる。薄い唇はなにかを紡ごうとして、けれど次になにかの音を紡ぐようなわけでもないまま、わたしの手首を掴んだ。朋也が驚いたようにぎょっと目を大きく開いた後で、彼の指が改めて一本一本手首にまとわりついてくる。小さな蛇に絡まれているようだった。触れられているうちに彼の指先に残ったじんわりとした熱を感じて、反対に自分の身体がさほど温かくないことにも気づく。
 弱まることも、強まることもしない雨音と、ドラマのやけに入り組んだ人間関係で起こる揉め事の声だけが部屋に反響していた。朋也はわたしの手首を掴んだまま唐突に立ち上がり、掴まれた手首に引きずられるようにわたしも立ち上がる。フローリングは冴え冴えとするほど冷たく、真っ白な自分の足に浮かぶマニキュアのはっきりとした色が、部屋の照明できらりと輝いた。
 朋也は迷うことなく真っ直ぐにわたしを引っ張っていく。先程まで半分寝転ぶような形で座っていたせいで、後頭部の髪が起き抜けの子どものようにぴょこりと跳ねている。
 地元にいた頃はまだ一度も染めたことはなく夜のような真っ黒の短髪だったのに、上京して少し経った頃には痛々しい金髪に染め上げてすっかり髪も長くなっていた。少し落ち着いた茶髪に至ったそれに手を伸ばそうとしたけれど、今は届かなかった。
 先にベッドへ辿り着いた朋也がふちに腰かけたまま手首を思いきり引っ張って、ぼんやりとしていたわたしは身体ごとベッドに飛び込んだ。

「ちょっと、乱暴じゃない」
「おとなしく寝とけ」
「やだ」
「……俺も寝る」
「え?眠いの」
「寝ようと思ったら眠れる」
「……じゃあ歯磨きしよ」
「あー」

 朋也が指が三本入るくらい大きく口を開けたまま静止して、明らかに面倒だというような顔をした。わたしは枕に触れている手や、ふわふわのベッドにくっついた頬が離れたくないと叫んでいるけれど、むりやり身体を起こして、彼の口に指先をひゅんと差し込んだ。大きく目を見開いた朋也はやけに素早く身体を後ろに引いてから、短い睫毛を何度もぱちぱちとさせる。

「っぶな」
「ボーっとしてるから」
「お前が一人で寝られねえって言うから」
「うん、気遣ってくれたんだよね」
「いや、まあ、なんかはっきり言われるとまたアレだけどさあ」

 テレビを消した記憶も、彼が消していた記憶もないけれど、ドラマの声はもう聞こえない。雨の音はひとつ先かひとつ後ろにいるみたいに、どうしてかうすぼんやりとしている。
 いつもと同じ、いやに清潔に整えられたベッドの上だけは世界から一歩隔離されたような不思議な感覚で。まるで宇宙船でふたりだけぽかりと浮き上がっているみたいな錯覚を覚える。
 滑らかで、清らかで、肌触りと居心地の良い、見慣れたふたりだけの船。

「……あー、だめだ、ねむい」
「おい、自分で言ったんだろ」
「なに」
「歯、磨け」
「……持ってきて」
「仕方ねえなあ」

 枕に顔を埋めたまま、立ち上がる朋也に視線をやると、真っ黒の瞳が烏のようにきらりと光った。枕の下に押し込んでいたはずのわたしの手を引っ張り出して、指先を一本一本絡めるようにして「一緒に行ってやる」と言った。薄い唇が紡いだ言葉に、またふらりとわたしは立ち上がる。

「眠い」
「はいはい」
「一緒に寝るの」
「寝る寝る」
「じゃあいいよ」
「何様だよ」
「彼女」
「確かに」

 おぼつかない足取りのわたしを面白くもなさそうに髪の毛を跳ねさせたまま、洗面台へ連れて行ってくれる。
 彼の手をそっと放して、跳ねた髪に手を伸ばしたらどんな顔をするだろう。
 またはっきりと聞こえるようになったテレビの音と、雨の音を聞きながら、そんなことを考えた。