※特典4弾冊子ネタあり

柔らかい虚空に沈む



 久方ぶりの連絡で彼の家へいそいそと出向くと、ふたつのファーストピアスを光らせた彼が久しぶり、と笑って出迎えてくれた。
 玄関には真新しいスリッパがこちらを向いて用意されている。靴を履き替えて、冬の匂いの纏ったコートを渡されたハンガーにかけると、彼がそのまま奥に引っ込んでいった。
 勝手知ったると言う程ではないにしろ、訪れたことのある彼の家の中は少しよそよそしい。履修科目が違うから大学の敷地内でも数ヶ月は全くと言っていいほど顔を合わせてはいなかったし、家に行ったのは更に前だった。
 下ろしたてだからかひどく固いスリッパで真っ直ぐに洗面台に向かい、手を洗って、うがいを済ませてリビングに向かうと、朋也はやけに真剣な面持ちでやかんを見つめていた。しゅうう、とすぐに湯が沸く音が聞こえて、朋也がある程度前に一度、わざわざお湯を沸かしてくれていたのが分かる。
 いつも彼の家に来るたびに出してくれていた、白くぶ厚い形の底が深いマグカップに、彼が緑茶を注ぐまでの流れを黙って見ていた。なんとなく、やかんを見つめている彼の目が、簡単に声をかけることが躊躇われるようなそれだったからだ。
 自分を纏っていた冬の匂いはいつの間にか欠片もなくなり、ただ、ぼんやりと感じるのは淹れたての緑茶の温かい匂い。

「寒かった?」
「まぁ、そこそこ」
「いきなりごめんな」
「うん、どうしたの」
「うん、まあ、あのさ」

 朋也がそう言って、唇を引き結んでわたしに背中を向けた。空気が人工的な温かさをもってわたしたちを包んでいるからこそ、こちらへ向けられた背筋の真っ直ぐさにひやりとしてしまう。
 同じように緑茶の注がれているマグカップを持って、朋也がわたしの向かい側に腰かけた。真っ白い湯気がぶわぶわと上がっている。
 左耳でふたつ揃いで光っている、武骨で無駄のない形のピアスと、空いているはずなのになにもつけていない耳たぶに目をやると、開けたて、といってもそれなりに安定しているであろうピアスの銀色だけが蛍光灯の下できらりと輝いた。
 顔に似合わず骨ばっていて大きな手が一度マグカップを包むようにした後、まるでわたしの視線を見抜いたように左耳に触れる。
 目が合って、透けるような茶色の瞳が唇と同じく丁寧に細められて、それからやっと彼がまた話し出した。

「開けたんだわ、これ」
「うん、すぐ分かった。いいじゃん」
「すぐ分かった?まじで?」
「分かるよ、目立つし。似合ってる」
「……なら良かった」

 ぴん、と耳の上の曲線に打ち付けられた銀色を指先ではじく様にしてから、彼は微笑んだ。唇を引き結ぶような感じではなく、息を吐くような感じで、まるでそれはため息にも似ていた。ふうっ、と、きっと外にいたら綺麗な白い息が浮かび上がるような想像をすると、白い彼の頬がちらりと瞼の裏に浮かぶ。
 冬みたいな人だ、と出会ってから何度も四季を繰り返している筈なのに今更、そんなことを考えた。わたしの言葉は打っても響かないような、形容のし難い沈黙が部屋の中に充満している。
 足に合わないというよりは履かれていないせいでまだ硬いままなのであろうスリッパが足先からすっぽ抜けそうになるのを母趾球で抑えながら、足をフローリングの上で擦るように動かした。手持無沙汰だからといって、指先をテーブルに置いて叩くような真似もしたくない。人が人なら貧乏ゆすりをすることすらやぶさかではない沈黙の中で、わたしは何度もフローリングの上で足首を僅かだけ動かして、朋也の言葉だけをじっと待っていた。
 本当に言いたいことが直ぐに出てくるわけではないことは分かっている、けれど、その本当に言いたい言葉を聞く為に、わたしは多分、ここにいる。

「この前、女の人と会ったって言っただろ」
「あー、マッチングアプリのやつね、聞いたの半年くらい前だけど」
「ブロックされた」
「……あー、そう、なんだ」
「なんかな、だめだったんだよな」
「朋也が?相性が?」
「なんかな、深いところまで踏み込もうとすると噛み合わなくなんだよ、だめだった」

 マグカップを両手で包んだ朋也が、「好きになれると思ったんだけどな」とカップの底に向かってそっと呟いた。そうなんだ、と言った自分の声は下を向いているわけではないけれど、どこかの奥底に向かって落ちていく。緑色のやわらかい香りのするお茶を手元に引き寄せて、わたしもマグカップの底を覗いてみるけれど、ゆらゆらと細かい茶葉の欠片が揺蕩うように動くだけだった。
 訪れることのなかった部屋の中で過ぎていった朋也と、その恋人にもなれなかった女性が交わした日々の名残はもう見えない。
 深夜料金のタクシーに乗ることを厭わないわたしの存在を、もしも彼が男女の機微に理解のある男だと自負したうえで美しい友情だと断言するならば、それはとても残酷なことのようにも、奇跡のように優しいことのようにも思える。
 やっと湯気の落ち着いたお茶に口をつけると、ざらついた感覚と渋い味が喉の奥に落ちていき、お腹の辺りがゆったりと温かくなっていった。
 中身の減らないマグカップの奥底だけをじっと見つめている朋也の茶色の瞳が、それよりもわたしをきちんと映すことはこのままなら永遠にないのだろう。
 ゆらゆら、ふわふわ、とめどなく茶葉の欠片が揺れて、朋也は銀色のふたつの金属を耳の真ん中で光らせているだけだ。
 わたしはいつもその季節の匂いに包まれて、こうやって、向かい合っていくうちに、また消費されてしまう。

「しんどい?」
「まだ、ちょっとな」
「ねえ」
「なに?」
「わたし、朋也のこと好きだよ」
「……?」

 なに?という時の彼の声の高さとリズムが、ここまで言ってもまだ小鳥みたいな顔で不思議そうにするところとか。

「そういう意味で言ったけど、別に気にしないで」

 本当は、いっぱい気にしてほしいけれど。勝手に黙っていたとはいえ我慢した分、いっぱい考えて欲しいけれど。
 傾げていた首が真っ直ぐになって、急に真剣味を帯びた目で朋也がわたしを映して、マグカップにわたしはやっと勝利をした。一瞬の勝利に酔うためだけではないけれど、彼の閉じた唇がなにを言うのか、わたしは彼の目を見つめ返しながら、じりじりと考える。
 待つのには慣れているし、寧ろこんなに見られることの方にこそ慣れていないような気がした。

「いつから」
「結構ずっと」
「……俺、すげえ酷い奴だな」
「別にそれはこっちの勝手だから」
「……そんな寂しいこと言うなよ」
「なんでそんな顔するの」

 子犬のように潤んだ瞳が、ひたすらにわたしを見つめてきて、それは慣れた沈黙よりずっと所在なく感じる。なんの勝利なのか、寧ろ今までは敗北だったのか、なにも分からないまま、茶色の彼の目がわたしを映す。
 泣いているはずないのに泣かないで欲しいと言葉にして言ってしまいそうなほどで、残酷なのはいつだってわたしだけだ。
 朋也が見つめるマグカップの底にも、わたしが持て余したスリッパの中にも、冷えたフローリングにも答えはない。
 答えられない問いかけをした自分の愚かさを、今まで無意味に堪えてきた自分の愚鈍な感情を呪う様に祝うように、わたしは彼の淹れてくれたお茶に口を付け、また彼の言葉をじりじりと待つのだった。