苟の幸福であっても



 駅前で見かけた朋也は、改札に吸い込まれていく誰かに手を振って微笑んでいた。ただ一人だけ、朋也の隣で頬を赤く染めて話している女の子にも、希望的観測で言えば同じような微笑みを向けて。
 わたしはこれから改札外へ向かうわけで、朋也にも多分気づかれる。だからといって、たとえば彼が横に立つ女の子とどこかへ行く光景をじっと見届けるなんてまっぴら御免だった。もしこのまま、あの女の子と彼がどこかへ行ったら浮気だと騒いでもいいのだろうか、なんて望んでもいない余計なことまで考えてから、悩む時間も無駄かと定期をいつもより少し強く押し付けて改札の外に出る。湿度の高いむわりとした空気が身体を取り囲んで、次いで耳に届く「おおー」という、あまりにも今のわたしには柔らかすぎる声。それだけで、朋也がわたしの姿を見つけたのだと分かった。

「ほら、みんな行っちまうから、帰れよ」
「また絶対ですよ」
「はいはい、分かったって、さては酔ってるな?」
「酔ってないです!」
「じゃあちゃんと帰れって、」

 なんとなく幼い印象を受ける女の子といつもの朋也の会話はどこか完成していて、恐らくは今までに何度も繰り返されているのだろうな、と分かる。
 わたしが、どちら様でしょうか、あなたが来たのをきっかけに追い返されてしまったんですけど、という敵意を含んだ視線を受けていることを知ってか知らずか、朋也はわたしを指したままその女の子に向かってなにかを話しているようだった。彼の唇の動きが終わったと同時にやってくる値踏みされるような視線を感じて、改めて、そこの改札を出て今こちらへ歩いてくる人間が俺の彼女なのだ、と女の子に告げたのだと理解した。追い打ちをかけるように朋也は、改札を出てすぐの場所でどうすべきか混乱しているわたしを手招きして、あまつさえ「」なんて、わたしにまできちんと届くほどの声を出して、わたしの好きな笑顔を浮かべる。改札の外にいた時は、一礼をして名残惜しげに去っていく彼女と勝った負けたのような感情を抱き合うのだろうと考えていたはずなのに、勝敗なんていうものは些末な問題に過ぎないのだと痛いほどに理解してしまった。ずるい、という言葉で片付けられないほど、その声と笑顔がわたしの頑なな感情を溶かしつくしてしまうから、そのほかのことはどうでも良くなってしまうのだ。
 よくよく見たら手ぶらでやけにラフな格好の朋也は「ラッキーだったな」と唇の端を釣り上げた。なにがラッキーなのか。わたしに言わせてみれば、改札を出た時点で、というか朋也に会った時点で十二分にラッキーなはずなのに、それを知らないはずの彼は得意げにそう言ってのける。

「今日は俺、送迎係してんだわ」
「へえ、なんで」
「みんな忙しいって言ってたし、とりあえず駅くらいまでなら送ってやるわって」
「優しいねえ、そりゃモテますわ」
も乗ってくだろ?」

 嫌味を言ったことにも、断るという選択肢があることも知らぬ存ぜぬで通すらしい朋也は、ポケットに入った車の鍵をゆらゆらと揺らしてわたしが歩き出すのをじっと待っている。
 人々を吐き出す電車の波が収まって息苦しさのなくなった改札口で、わたしは彼のお言葉に甘えることにした。本当はちょっとだけ、あの賑やかな人たちが乗っていた車に、そして恐らくはあの女の子が乗っていたであろう助手席には乗りたくなかったのだけれど。矮小な女だ、本当に自分でがっかりするくらいに。
 ばかみたいに長い脚を持て余すこともせず、歩調を合わせてわたしの隣をきっちりと歩いてくれる朋也の横顔をわたしは見ていた。月の明かりや、電灯、夜に浮かび上がる彼の横顔が特別美しいような気がして、もっと見ていたくなる。いつの間にか自然に遅くなっていた歩くスピードに、朋也に見惚れていることに気づかれているのかもわからないまま、ゆっくりと彼の車へ向かう。  通ったことのない道のせいで、駅前とはいえ道があまりよく分からないわたしの順路は外れていたらしく、「こっち」と肘の下あたりを軽く撫でるように引き寄せられた。こんなところにあったんだ、というような場所にある駐車場に見慣れた彼の赤い車が宵闇に浮かび上がった頃、肌の感覚がゆっくりと思い出される。朋也の、あの熱を持ったやわらかい指の腹が、いまわたしの腕に触れたのだ、と。

「ラッキーだったな」
「はいはい、感謝してます」
「あ?違えよ、俺が」
「なんかあったの」
「さっき、妬いてくれただろ」
「……どうだか」
「かぁわいいなぁ、今日も」

 息をするようにばかみたいな言葉を添えた朋也は微笑んで、いつもやらないくせに今日だけは助手席の扉を丁寧に開けて導いてくれる。滑り込んだ車の中はオープンカーの屋根を被せていても外気とさほど変わりなく蒸し暑く、わたしは助手席に座るとすぐに両頬を両手で包み込むようにして、膝の上に乗せた鞄に身体を預ける。頬が熱いのは明らかにさっきの言葉のせい。妬いていたことも見破られていたし、かわいいと言われただけで、もう、わたしは彼にしか見せられない、本当は一番見せたくないわたしになってしまうから。
 ジーンズの尻ポケットから財布を取り出して、清算を済ませている音が聞こえる。もうすぐやってくる彼の足音が聞こえるような気がして、「この車、暑い」という言葉だって準備していた。最初はそれ、次はこう言って、そのあとで送ってくれることに対しての感謝の言葉を告げる。短い時間ながら脳内でぐるぐるとシミュレーションを繰り返す。
 運転席に乗り込んで車のエンジンをかけ一番にクーラーを動かした朋也が、わたしの準備した言葉を待たずに口を開いた。

「やっぱアンラッキーかも」
「どっちなの」
「……なんでん家まで行くのに俺帰んなきゃなんねえの」
「知らないよ」
「うわぁ、めっちゃ悲しくなってきた、なぁ、なぁ」

 勝手に朋也がラッキーとアンラッキーを繰り返す頃には車はとうに暑くなくなり始めてているし、彼は車を走り出させようとしている。こんな風にひたすらぼやいているけれど、結局は仕事のことを一番に考えている彼がわたしをきちんと送って帰っていくと知っていて、そういう気遣いができるところをひどく好きだと思う。彼がシートベルトをバックルに差し込む音が聞こえてからようやく自分もシートベルトを締め忘れていたことに気付いて、ノールックのまま手元にベルトをアンカーから引っ張った。

「あ、待って」
「なに」

 しゅるしゅる、という音がふたつ聞こえて、わたしの手から力が抜けてシートベルトが外れて、そしてそれとタイミングを同じくして、彼も付けたはずのシートベルトを一度外したのだと分かった。シートベルトバックルにはまらず、そのまま戻っていく感覚より鮮明なのはわたしの頬に触れる朋也の指先の感触。そして、目を閉じる瞬間すら惜しむように、驚くことも忘れるほど唐突に当てられた唇。

「今日はこれで我慢するわ」
「……は、い」
「じゃあ、不肖芹澤朋也、安全運転で参ります」

 そう言って何事もなかったかのようにさっさと車を動かすから、ばか、シートベルトまだつけてないよ、という言葉も出なくて、ただ急いでシートベルトを締める。
 彼が我慢する、と言ったら当然のように我慢をするわけで、わたしを家前で降ろしたら本当に彼は帰ってしまう、ときちんと分かっている。さっきだってそういう律儀というか、真面目なところが好きだと考えたばかりだというのに、久しぶりに味わった唇の感触に、帰りたくない帰したくないと、子どものようにだだを捏ねたくなるのはわたしの方だ。
 それにしても彼はいつもいつも子どもみたいな顔で、誰よりも大人にわたしのことを愛してくれるから、どうしたらいいのか見当がつかない。
 一生とまではいかないだろうけれど、当分はこの人にこうやって愛されていくのだろうな。
 一番自分の身体にしっくりとくる助手席から、ハンドルを握る彼の横顔をぼんやりと眺めながら、「ラッキーだったね」と小さく呟くと、朋也が「微妙だな」と、こちらの唇を勝手に奪ったくせに意地悪く笑った。