水銀は零れたままで



 あー、こういう感じなのか。
 初めて参加した会社の飲み会の居心地は、とってもよろしくない。
 勤続数年、唯一仲の良い同僚から「どうしても阿部くんとお近付きになりたいから!」と必死に頼まれて仕方なく顔を出したけれども、やっぱり一人で行ってもらえばよかった。横目でちらと見れば、同僚は阿部くんの隣をがっちりキープして楽しそうにお喋りしている。お酒の力もあってか、悪い雰囲気ではなさそうだし、よかったよかった。安心してカルピスを一口飲んだ。グラスの中の氷が溶けきってしまう前に、除け者はさっさと帰ろう。トイレに行く振りをして鞄を持ち早々と立ち上がった。別に、わたしひとり抜けたところで誰にも気にしないだろうし。トイレの前を足早に通り過ぎて店の出入り口のドアを開けようとしたら、不意に声をかけられた。

「あれ?もう帰んの?」
「え?はい」

 わたしが迷わず頷くと、トイレ横の壁に寄りかかっていた芹澤さんは苦笑いしている。

「飲み会つまんない?」
「うーん、まあ、はい。それにわたしの役目は終わりましたし」
「役目?」
「とにかく出席するっていう」
「なんだそれ」

 そう言って鼻で笑う芹澤さんの後ろから、トイレを済ませた男性がひとり出て行った。

「……芹澤さん、空きましたよ」
「あ?何が?」
「あれ?トイレ待ってたんじゃないんですか?」
「気付いたら草太を介抱する係になってただけだよ」
「え!宗像さん?」

 宗像さんと言えば、見惚れるくらいの美人で格好良くて誠実で誰からも好印象を持たれるような人柄で、なによりわたしの中では有名人だ。会社で隣席の後輩から「宗像さんって素敵ですよね」と打ち明けられてから、たびたび名前を耳にする。とは言っても、わたしは宗像さんと直接関わったことはなくて、何度か姿を見たことがある程度だった。介抱されなきゃいけないくらい羽目を外してしまったのか、はたまたお酒に弱いのか、なにがしかのイメージを持つ程なにも知らないけれど、意外だ。

「……あれ?芹澤さんって、宗像さんと同期なんですか?」
「え?ああ、大学でも同級生だったし」
「そうなんですね。宗像さんってめちゃくちゃ先輩だと思ってました!」
「……理由にもよるけど、それ俺か草太に失礼じゃね?」
「あはは、すみません」
「否定しろ、否定」

 ちょっと待ってろ。芹澤さんはそう言ってから一度男子トイレの中へと消えた。……なんだろう。かと思ったらすぐに戻って来て、ドアをぱたりと優しく閉める。

「で、帰んの?」
「え?そのつもりですけど」
「じゃあ送るわ。そこまで」
「……そこまでなのが芹澤さんらしいですよね。それより宗像さん大丈夫なんですか?」
「あいつはまあ、なんとかなるだろ」
「いやいや、しっかり介抱してあげてくださいよ。わたしの方こそ大丈夫なので!」
「……そんな草太のこと気になるわけ?」
「え?」
「……やっぱ家まで送る。財布と携帯取ってくるからタクシー拾っといて」

 芹澤さんはそう残して、さっさと賑やかな方へと歩いて行ってしまった。思えば、この間にひとりで帰ってしまえばよかったのかもしれない。呆気に取られている間に芹澤さんは上着を羽織りながら戻って来て、何で突っ立ってんの?とわたしを見て少し呆れていた。
 店を出てタクシーを捕まえて、わたしに先に乗るよう促して。そこまで、だったはずなのに当たり前のように隣に乗り込むから、本当にどうしたらいいのか分からなくなる。わたしは目的地を運転手さんに告げて、外を眺めたままなにも話さなかった。一度だけ芹澤さんの方を盗み見たけれど、芹澤さんも外を見ていて、わたしたちの体温はもちろん、目線がぶつかることすらなかった。車内は沈黙のまま目的地に到着して、自動でタクシーのドアが開いた。慌てて鞄から財布を出そうとしたわたしのことなんて全く気にかけず、芹澤さんは早々と一万円札を渡して運転手さんからお釣りをもらっていた。タクシーが見えなくなるまで見送ってから、芹澤さんは迷いなく、たった今来た道を戻り始めた。

「あの、芹澤さん、すみません」
「別にいいよ。案外近かったし。じゃあ、俺戻るから」
「え、歩いてですか?」
「まあ駅までは」
「じゃあお供します!」
「バカか、それだと家まで送った意味無くなるだろ」
「じゃあちょっと休んで行きませんか?」
「え」

 ……ああ、いやだ。こういうとき、こんなセリフをサラッと言ってしまえたらいいのに。間違いなく真っ赤に染まっているであろう熱い顔、寒さでもなく小さく震えてる肩、下心がきっと真っすぐに伝わってしまっている。芹澤さんは一瞬だけ目を丸くしたけれどすぐに表情を戻して、わたしの方へと歩み寄ってくる。今までにない近い距離、身体が少しだけ仰け反った。

「……それさ、意味分かってんの?」
「ええと、部屋汚いし、狭いし片付いてないし、それでも良かったら」
「ばか。そういうこと軽く言うな」
「……芹澤さんだから言うんです」
「本気で言ってる?」
「わたしは」

 わたしの意図は、絶対にすべて芹澤さんに伝わっていて。だから言葉を遮るように、肩を抱かれて重なった唇がその答えだったんだと思う。

「……もしかして酔ってるわけ?」
「今日はカルピスしか飲んでないです」
「草太は?」
「……なんでここで宗像さんが出てくるんですか」
「いや、別に」

 芹澤さんは興味なさそうな返事をしてから、わたしの腕を引いて二度目のキスを落とした。

「芹澤さん、わたしのこと好きですか?」
「なんだよ、その訊き方」
「だったらいいなって」
「……勝手に勘違いしてれば」
「え」
「ばーか。冗談だよ」

 その後、荷物を持った芹澤さんが自力で帰ってもらうように宗像さんに連絡していたことだとか、同僚から「今日はありがとう!」と幸せそうなスタンプが送られていたことだとか、そういった裏側の諸々を、明日の朝になるまでわたしは知らない。
 こんなにも心臓を射抜かれて、そこからじんわりと溶けていくみたいに、柔くて強くて、深くて。そんな大切にされる、忘れられない愛され方は初めてだったなんて、絶対、誰にも言えない。