日々の声に埋もれて



 久しぶりに使う鍵を掌の中で弄びながら、俺はエレベーターに乗っていた。
 先程まで仕事だった俺に何度かラインを送ってきた彼女は、休日を満喫しているようだった。なぜかと言えば珍しく、友達が買ってきてくれた地ビールの写真だとか、テレビの感想がちょこちょこ送られてきていたからで。そんな風に部屋で一人で楽しんでいる旨が送られてくるたびにぴろんぴろんと音を鳴らす自分の携帯を見ていたら、サプライズ心がむくむくと膨らんできたのだった。
 思っていたよりも二時間巻いて終わった仕事、そして今俺がここにいることも彼女は知らなかったりして、まぁ、行くしかないでしょう。
 玄関に余らせていた鍵を「朋也、これ持ってく?」と別段興味なさそうに言われてから、本当にひとつの連絡もなしに家へ向かうのは今更ながらリスキーだ。けれど、エレベーターのドアは順当に俺を追い出そうと開きだすし、一番奥の部屋の彼女の部屋は灯りがついている。
 鍵の輪郭を指先でなぞりながら、ゆっくりと部屋まで向かい、鍵を差し込む。がちゃん、と重い音が響いて、そっとドアを開くと、意外にも部屋は静かでテレビの音すら聞こえなかった。
 玄関にはいつも履いてるパンプスとスニーカーが並んでいて、部屋の電気も概ねついていて、そっと寝室へ向かうと、なぜかいつも彼女の来ている部屋着がベッドの上に放ってあった、部屋着、しかもいつも着ている短めのズボンとTシャツの上に羽織るパーカーだけ。
 下着やTシャツは置いていないし、中途半端がすぎる光景ではあった。いや、いやいや、今めちゃくちゃ浅ましい想像を、いや、っていうかあいつどこだよ、スリッパを履くのも忘れて寝室にいる俺の耳に、カラン、という音が届いた。
 反響音からして、風呂場から聞こえた音にそのままちょっと大きめの足音を立てながら向かうと、つけっぱなしの電気と少しだけ透けた風呂場のドア越しに彼女が「……誰?」と心細くつぶやいたのが分かった。

「あー俺」
「朋也……?……待って!待って待って!開けないでね!」
「なんで、今更裸とか恥ずかしがる仲じゃないだろ」
「なんでも!ちょっとテレビでも見て待ってて」
「いいじゃん、何、風呂入ってたの」
「いーから、ベッドの部屋もだめだからね、汚いから」

 もう入ったし見ちゃったけど、そして実際確かにちょっと汚えなって思ったけど。別に入浴しているわけでもないらしい彼女の慌てた声に、俺はなんとなくドアを開けたくなった。足音がしない時点で俺が入口から動いてないことにも気付いているらしく、影は動かない。

「連絡もなしに」
「サプライズだって」
「……勘弁してよ」
「はぁ?なんでそんなこと言うんだよ」

 心の底から迷惑そうな彼女の溜息が風呂場に反響した瞬間、俺の苛つきも頂点に達して、風呂場のドアを開ける。目の前には見たこともなければ正直カワイイともお洒落とも程遠いTシャツ一枚とパンツ姿でスポンジを握りしめた彼女の姿だった。頭には前髪を上げるためにピン、いつの間にか伸びていた髪も適当なお団子にくるんとまとめられていて、すっぴん。しかもよくよく見れば、Tシャツの下は何もつけていないようで、その姿を俺が上から下、下から上、というように眺め終わったあたりで、彼女が耳まで真っ赤になっていることに気が付いた。
 そこまで広くない風呂場のそこかしこについている泡をあとは洗い流せば終了といった具合か。ぐるり、と風呂場を眺めてそんなことを考えて、またいつの間にかTシャツに目線をやっている自分がいた。仕方ないじゃんか、健全な男としては見るだろ、と自分では納得しているものの、入ってほしくない、と言った理由もよく分かる。
 何十秒かわからないけれど、ただお互い立ちつくしていた(俺の視線だけは動いていたけれど)まま時間は過ぎていった。

「……終わらせるからとりあえず閉めて」
「んー」
「こっち見ないでください」
「俺、ここで終わるの待ってるわ」
「ばか!変態!」
「いやぁ、サプライズされたなぁ、俺」

 へらり、と自分の口元が緩むのが分かったけれど、同じくらい彼女が膨れているのも分かった。
 そっと風呂場のドアを閉めると、のろのろと彼女の影が動いて壁や浴槽にシャワーで水を当てている音が聞こえた。脱衣所に置かれていたスポーツタオルにちらりと目をやって、脱衣所を出てすぐのところで「ちゃんと出てるから」と声をかけてみる。そのまま脱衣所のドアを閉めたから、本人に俺の声が聞こえているのかは分からないけれど。
 やっと、いつも通りスリッパを履き、勝手に上着をかけて、鞄を置いて彼女が戻ってくるのを待っていると、彼女は俺の予想より少しばかり遅く戻ってきた。髪の毛はきちんと下ろされているけれど、それ以外は風呂場で見たまま。少し違うのは、先ほどまで洗剤の匂いをさせていた体から石鹸の匂いをさせていることくらいか。本来ならあの格好で掃除をして、そのまま風呂に入って、裸のまま寝室で新しい寝巻に着替えようと思っていたのだろう。流石に俺がどこにいるのかも分からない状態でそんなことをする気にはならなかったらしく、一度Tシャツと下着を脱いで身体を洗って、また着直したのか。

「テレビ見ててって言ったじゃん」
「なんで着替え用意して掃除してないんだよ」
「朋也来ると思わなかったから」
「まー俺は全然いいけどな、こっち来てみ」
「いいって、濡れちゃうでしょ」
「じゃあ俺から行く」

 首から下げているタオルがめちゃくちゃに邪魔、いや、言わないけど。後ずさる彼女に素早く近づくと、僅かに洗剤の匂いがした。
 真正面になるように腕を引いて身を屈めると、視線を合わせないように彼女が顔を背けるから、腕を掴んでいる方と反対の手で、耳と頬を包むようにして顔をこちらに向けさせた。
 視線が絡み合うだけで、言葉を失っている彼女からそっと手を離して、距離を取ると子どものようにぽかんとした表情を浮かべた。

「風呂、入り直すだろ」
「うん」
「テレビ見て待ってるから」
「……っえ?あ、うん」

 予想よりも彼女のリアクションは分かりやすく、部屋へ向かおうと俺が背中を向けるよりも先に気の抜けた返事。
 口元が緩んで緩んで止まらないまま、もう一度視線を絡み合わせる。

「何、期待した?一緒に入る?」
「してない!入らない!」
「俺はいいけどな?」
「朋也はテレビを見ていてください」

 そう言ってさっさと寝室へ引き上げ、見慣れた部屋着一式と大きめのタオルを抱えて彼女はまた風呂場へ戻っていく。いつもより大きな足音で風呂場へ向かっていく彼女の背中を見つめていた。
 テレビ見とけ、なんて言われてもなぁ、先程見た光景がまだまだ忘れられそうにない。水で透けたTシャツに男心をガツンと擽られたことは事実だけれど、それよりも後、俺がもっともっとその格好に対して何か言ってくるだろうと覚悟していただろう彼女の気の抜けた顔といったら。底意地が悪いと言われたらそうかもしれないけれど、今もきっと俺に対して膨れているであろう彼女が戻ってきたら、どんなことを言われるだろう、どんな顔をするだろう、先ず怒られるのだろうか、なんてことを考える。
 まだまだかかるであろう入浴の間、俺は言われた通りテレビでも見ている素振りでもするべきか、とやっと移動することを決めるのだった。
 どうせテレビの内容なんて一ミリも頭に入らないだろうけれども、それでいい。知らないふりをするのも焦らすのも、俺は大得意なのだから。