褪せたまぼろしの翳



 電車のドアに身体を凭れさせたまま、俺の身体は夜の街を進んでいく。
 運ばれている、という感覚は間違っていないのだけれども、揺れる電車がいちいち止まるたびに入る冷気で直ぐに現実に引き戻される。マスクをした口元がじんわりと暖かく、ただ揺らされている身体が、頭が、覚醒していない。
 夜の闇を切り取ったガラスに映る自分の輪郭のぼやけた顔は疲れているような、怒っているような顔だった。実際の自分の感情とは恐らく沿っていないけれど、傍から見たら俺は疲れていて怒っているのかもしれない。なるべく客観的に考えてみると、あながち間違いでもないような気がした。その感情の宿った目を正面から見ないように、伸ばしっぱなしの前髪に軽く指先で触れて視界を遮った。
 ガタンゴトン、音が響く。イヤホンをつけていない俺の耳に、俺を運ぶ電車の音だけが響いている。電車の中を見渡しても、時間帯のせいか、イヤホンをつけ、俯き、携帯を弄る人間ばかりで、それが老いも若きも男も女も変わりない。誰かと一緒にいるであろう人間は一人もおらず、ぽつりぽつりと感覚を開けるように座っている。
 ポケットに入れていた携帯電話が震えたような気がして取り出してみるも、なんの通知も来ていなかった。
 黙々と、一心に運ばれている俺のことを果たして彼女は考えているのだろうか。疲れてもいないし、怒ってもいない俺の代わりに夜の中でそんな顔をしてくれる彼女を脳裏に思い浮かべながら、残りの駅数を計算した。
 煌々と照らされたライトで浮かび上がる駅の名前を見て、あと残り二駅で最寄り駅であることを俺は理解する。彼女の事を考えながら運ばれている俺よりも、そういう相手が自分のところにやってくる方が恐ろしいと思うのは俺だけだろうか。
 待つ方と、向かう方で、心労の量みたいなものを考えてみると、後者の方がまだ身体を動かしているし、「向かっている」という立ち位置の方が優位に立てるような印象を受ける。しかし結局はこれもただの主観で、相手が何も考えていなければこの夢想も意味なんてないのだ。
 電車はゆっくりと着実に俺を運んでくれるので、二度目に電車のドアが開くと何度か降りたことのある見覚えのある景色が俺を出迎える。誰もが周りに興味を示さないあの空間が少しばかり名残惜しいような気のまま、それでも俺は電車を降りた。降りるしかない、向かうしかない、他の選択肢も幾つもあるのだけれども、俺が選ぶ答えはひとつしかない。鳴ることのない携帯電話を握り締めて、俺は改札を通過した。
 エスカレーターに乗りながら、片手で通話履歴の画面を表示して、通話ボタンを押す、彼女の顔をぼんやりと再び脳裏に浮かべながら。

『もしもし』
「着いたけど」
『家分かる?』
「多分。変わってないなら」
『変わってないよ』

 五コール目で出た彼女の声は酷く淡々としていて、俺を待っていたわけではなさそうだった。俺が彼女の許へ向かっている間に、一度でも俺の事を考えたり、思い出したりしたのか疑いたくなるほど音が同じ声。
 波があって、色があって、その鮮やかな声を何度も同じ機械越しに聞いたことがあるような気がしていた。
 体内にはまだ電車の揺れが残っているような気がして、電車が止まるある程度同じ間隔みたいなものも身体に残っている。真っ白になる程光に照らされたコンクリートを踏みしめる感覚も、身体の中の何かがふつふつと溢れるような思いも。
 電話をかけておいて、話すべきことは特に思いつかず、けれど、彼女の家までの間また一人で夜道を歩くのも違った。俺の代わりに疲れたり怒ったりしてくれる何かもないただの人気のない道で、俺は何も喋らない彼女の空気だけを聞いている。
 沈黙が苦痛になるのは別れ際のカップルだけではないだろうか。もはや俺と彼女の間の沈黙は苦痛ではなく、ただの沈黙であってそれ以上でもそれ以下でもなかった。たまに聞こえるうっすらとした呼吸音と部屋のしんとした音がきちんと俺の耳にすべて伝わってくる。
 ちょうど彼女の家と駅の中間地点にあるコンビニの前で俺はふと足を止め、すぐ先の歩行者信号が赤なのを見た。

「今コンビニの前にいるけど、なにかいる?」
『……ううん、大丈夫』
「うん」
『でも、なにか食べたかったら買ってきても大丈夫だよ』
「俺はいいよ」
『そう』

 沈黙。すう、と軽く息を吸ったのが俺なのか彼女なのか分からない。
 身体に残った電車のリズムも、偽物の俺の瞳の色や形も、駅の光もすべてが順番に上書きされていく。
 俺はコンビニからも離れ、青信号を渡り、何度か行ったことのあるマンションに向かってひたすらに歩いていく。
 何度も繰り返し思い出していた筈の彼女の顔はいつの間にか摩耗していった。彼女もきっと同じだろう、と考えてから、摩耗するほど思い出そうという考えすら持たれていないのかもしれないと気が付いた。
 どんどん上書きされても必死に掴んでいた筈の記憶ですら、俺の都合のいい記憶に改ざんしていくから記憶すら信用していない。
 それでも俺が持っているのは俺の記憶であり記録であり手の中に、身体の中に、頭の中に残っているものしかないのだ。
 薄れていく沢山の思い出と同じくらい、消したいはずなのにどうしてか居座る記憶と一緒に慣れ合って生きていく。会いたかったのか、会いたくなかったのか分からないまま、俺は擦り切れてもう思い出せない、ただ好きだったという記憶だけ持って歩いていく。
 どんな顔だったのか、俺はどんな顔をしていたのか、そんなこと何もかも忘れてしまった、いや、忘れようと努力していたから。
 いつもぶつかりそうになった触らないと開かない自動ドアにそっと俺は手を触れる。初めて来たときは彼女が俺の隣で笑って「皆困るの、よく宅配便の人も困ってる」と言って、ドアに触れていた。帰りは触らなくてもドアは勝手に開き、俺はいつもドアを触ることは無かった。
 ドアに触る自分の手がまるで心細がる子どもの様で、触れた瞬間にすぐ開いた自動ドアから俺は一歩引き下がりそうになる。

「もう下まで来たよ」
『うん』
「何階だっけ」
『五階』
「うん」
『一番端』
「それは覚えてる」

 一階におとなしく止まっているエレベーターに乗り込んで五のボタンを押すと、上にそのまま身体が運ばれていくのが分かった。五階までダッシュで登るのと速度的にはたいして変わらないような錯覚を覚える程のゆったりとしたペースでエレベーターは動いていく。
 エントランスに設えてある鏡を見るのを忘れたな、と思いながら俺は帽子をまた深く被り直した後で、エレベーターを降りた。
 一番端の部屋に真っ直ぐ、迷うことなく向かうと、見慣れた彼女の気に入りの鮮やかな緑の傘がかかっているのが見える。目印のようにかけてあるけれど、それがなくても辿り着けていた分、なんだか忌々しくも思えた。
 呼び鈴を鳴らすべきか逡巡して電話を切ることも無く、少しの、本当に三十秒もない間、立っているとドアがゆっくりと開いた。サンダルを履いて、片方の手で携帯をまだ耳に当てたままの彼女は少しだけ痩せたようにも見える。暖房のせいか少し赤い頬から俺は少しだけ目を逸らしたまま、玄関に上がった。
 携帯を耳に当てている彼女を律儀だと思ったけれど、同じように俺も携帯を耳に当てたまま「久しぶり」と言っていた。

「久しぶり」
「ほんとに、」
「うん」

 俺は玄関口に立ったまま、彼女はスリッパに履き替えた状態で、向かい合って携帯を黙って耳に当てていた。だぶって耳に届いた声は一気に懐かしいもののように聞こえた。
 顔を見たら、何度も何度も思い出していた顔のままだったように錯覚したけれど、これも都合のいい補正なのだと知っている。それでも、摩耗しても思い出し続けていた顔はこの顔だった、と単純に俺は分かった。
 先に携帯を離すのはどちらだろうか、と考えて、俺の方が先に携帯を離して通話を止める。意外そうに軽く目を瞬いた彼女も同じように通話を止め、少しだけ後ろに下がった。
 お邪魔しますと言いそびれたけれど、そんな他人行儀な言葉を今更言いたくないような気もして、黙って家に上がる。

「寒かった?」

 始まりも終わりもないような声で彼女が俺に言った。

「寒かった」

 俺は服を着替え、マスクを手に取り、電車に揺られ、沈黙を聞き、ここまでやってきた時間と過程を思い出しながら、答えた。