階段を駆け降りると、ちょうどホームに到着した車両の扉が開く頃合だった。電車の中から一定の速度で吐き出される人波に逆らって進んで、発車を告げるサイレンに怯えながらなんとか車内に滑り込む。扉が閉まり、ほんの少しの間を置いて電車はゆっくりと次の目的地へと走り出す。金曜日の終電間際はさすがにひどく混んでいた。
今日もまたこんな時間だ。携帯電話のディスプレイを見れば、0が並んだデジタル時計が月曜日からちらちらと淡く燃えていた憂鬱の火に油を注ぐ。窓の外はすっかり夜に覆われていて、真黒に塗られた窓に映った自分の顔に俺は内心ぎょっとする。いつからこんなに老けたのだろうか。顎を一撫でしてみると微かに伸びた髭が皮膚に刺さった。二十代後半戦。寄る年波に逆らう有効手段は未だ入手困難だ。
電車を降りて改札を抜けると、目の前に広がるスクランブル交差点の向かい側に立ち並ぶビルの明かりが夜に対抗するかのように輝いていた。その明かりを、それを目指して進む人の群れを横目に俺は地下へと潜る階段を目指す。都心にひとりで住むようになった当初は夜になればなるほど活気づく東京の街並みをただただ不思議に感じていたけれども、今やこの街の風景を、この街に飲み込まれていく自分自身を疑問視などしなくなった。
地下に潜り、白んだ電気の下を進んで地下鉄の改札を通ってホームへと下りた。人でごった返すホームを進んで、8号車と書かれたところで足を止め行列の末尾へと付いた。電光掲示板を見上げると、電車は少し遅れているようだった。この混みようでは致し方ないとぼんやり諦念を抱きながら前に並んでいる男性が広げているスポーツ新聞へとなんとなく目を落としてみれば、イチローがまた快挙を成し遂げたとかなんとか書いてある。紙面で圧倒的才能を示す彼を前に、先程窓ガラスに映った自分の顔を思い出してなんだかおかしくなった。閉じ師は代々続く宗像家の家業で、大事な仕事は、人からは見えない方がいい。その考えは今でも変わらない。けれど、こうして表向きの生活をしていると時折思うのだ。果たして昨今の自分はなんの快挙を成し遂げただろうか。新記録は出しただろうか。誰かに、どうしようもなく必要とされているだろうか。
轟音を響かせてホームに到着した電車になだれこむように乗り込んで、押し潰したり押し潰されたりを繰り返しているうちになんとか自宅の最寄り駅に着いた。自らの陣地をなんとしてでも守ろうとする人々に阻まれながら車内を進んで、転げ落ちるように電車を降りたときには先週末クリーニングに出したばかりのスーツにはすっかり皺が寄っていた。これは、早々にアイロンを掛けなければ。そんなことを思いながら地上へと続く階段を登り、改札を出た。
駅前の枯れた木にはオレンジ色の電球が無数に巻かれていてなかなか綺麗だと思うのだけれども、乗り換えのために降り立った街を思い出してなんだか落ち着かない気分になる。駅から少し離れた自宅へと歩くにつれて街並みは次第に質素になり、住宅街に入るとネオンどころか電信柱に取りつけられた電灯すらもまばらになって、いよいよ夜が更けて行く実感が沸いた。同じ東京都でこうも違うものかとなんだかおかしくなって、人の気配がないのを良いことに消え入りそうなほど小さな声で鼻唄をうたった。
鼻唄を歌いながら、家へと帰る。バイパスに掛かる歩道橋を渡って、歩道に面したベランダにきれいな花がいくつも咲いている白いタイルの貼られたマンションを通り過ぎて、中途半端に欠けた月を見上げて、アスファルトを蹴って進む。そのうち緑色の屋根を持つちいさなアパートが見えて来た。あかりの点いた南向きの角の部屋。そこが、俺の帰る場所だ。
「おかえり。今日も遅かったんだねえ」
「ただいま。先に寝てて良かったのに」
「どうして?わたしは草太におかえりって言うためにここに住んでるのに」
珠采は俺の鞄を取って食卓に備え付けられた椅子の上に下ろして、俺がソファの背にぞんざいに預けたスーツのジャケットを取ってハンガーに掛けた。そうして手際よく食卓の上に並べられた食器を電子レンジの中に入れてスイッチを操作する。彼女の背を見ていると、いつも決まって泣きたくなる。涙腺だって寄る年波には敵わない。
珠采と共に居を構えたのは二年前のことだ。住み慣れた街を出ることと、頻繁に家業で留守にする俺を彼女はそれなりに不安に思っていたようだけれども、二年ともなるとさすがに慣れて、今では俺がいようがいまいが休みの日となるとすぐにどこかへ行ってしまう。人は生活に慣れるものだ。ぎらぎらとしたネオンにも、足の踏み場もない満員電車にも。けれど、それは懐かしい街と少し似ている帰る場所があるからだと俺は思っている。緑の屋根を持つ、小さなアパート。彼女にただいまを言うために帰る家だ。
「あ、なんかスーツ皺寄ってる。置いといて。アイロンかけるから」
「うん。ありがとう。ねえ」
「ん?」
「ただいま」
さっき聞いたよ、と彼女は笑うけれども、それでもおかえりと言って俺の背中に腕を回した。やわらかな身体を抱いて思う。なんの快挙を成し遂げなくとも、新記録は出せなくとも、例えば彼女が俺を必要としている密度が「どうしようもない」と言える程度のものでなくとも良い。寄る年波には敵わないけれど、毎日くたくたのよれよれだけれど、この街で暮らしていたい。
ずっと、この場所に帰りたい。