解呪師は愛を囁いて



 叫びだしそうな救いのない夜のなかでただぼんやりと、彼の静かな顔の輪郭をそっとなぞっていた。
 たった一人の部屋で、ここにいない彼の、腹が立つほどにうつくしい顔の、涼やかに通った鼻筋を、ここにあるべきとさえ感じさせる完璧な位置の泣きぼくろを、重たく長い睫毛の先のきらめきを。
 今、この地球で恋している無数の人間が同じことを考えているのだろう。触れたい、だとか、会いたい、だとか。わたしは空も飛べないし、魔法も使えないし、どこでもドアを持っているわけでもなく、だからただひたすらに想像をしていた。目の前にいたらと。
 けれど今夜のわたしはそんな奇跡アイテムを夢想することを止め、人生史上初めて、ラインで文章を作って送信した。
 良識のある女に見えていると思う。仕事で会えなくてもお互いさまだと思っているし、前々から決めていた予定をドタキャンされても惚れた弱みで許すし、家族や友人を優先することも受け入れている。一般的なルールや常識もあるし、彼のなにやら物騒な匂いのする家業についてだとか頻繁に生傷を拵えてくることに対してだとかの当人が進んで話したがらない事柄に対して、それがたとえ彼氏だとしても一歩踏み込んで首を突っ込むような言葉は言ったことがない。
 ただの陳腐な日本語のくっついた四文字に句点だけは存外すぐに既読がついて、わたしはその文章に含まれた笑みを掬い取って財布を掴んだ。携帯に耳を当てながら、かかってきた電話に「今出る」と答えると、草太はたくさんの言葉を言おうとして、でもどれも選べなくて唸るような声を出す。
 夜は少し冷えるようになってきた外の空気を想像しながらコートを羽織って、財布を掴んで、わたしは彼の家までタクシーを飛ばしてもらった。ヘッドライトを煌々と輝かせたタクシーは悠々と、まるで空を飛ぶように深く暗い夜の底を走り抜けていく。
 草太からの連絡がリズミカルに送られてきて、唐突にぴたりと止まる。嫌われるのだろうかという不安はなぜか過らなかった。愛されている自信とも違う、ただ叫び出しそうな救いのない夜の外の空気が美味しくて、びゅんびゅんと飛び回っているだけだった。
 想像よりずっと早くタクシーはわたしを目的地に送り届けてくれて、睨み付けるように眺めていたメーターの数字通りの額をぴったりで支払い、ドアから飛び降りる。長いコートがはためいて、ポケットの中にある財布が僅かにバウンドした。
 今となっては見慣れた古いアパートの彼の部屋、鍵を差し込んでこんばんは、と声をかけるとふんわり甘い匂いが鼻孔を擽る。キッチンの近くに移動させた椅子に座り足を組んで新聞を読んでいた草太がちらりとこちらを見て、窓際のローテーブルに新聞を放りながら「本当に来た」と意外そうに言った。
 数十分前に狂おしいほど夢想した、腹が立つ程にうつくしい、長い睫毛に縁取られた目を瞬かせて。

「家来ていいよって言うから」
「まぁ全然良いけど、珍しいな。
「そう?」
「草太くん会いたい、ハートマーク連打」
「そこまで言ってないじゃん、話盛らないでよ」
「うん、でもそういうノリだっただろ」

 ちいさな雪平鍋の中では牛乳が温められていて、木べらを片手にそれへ近寄りながらも、首をこちらに向けた草太が満ち足りた顔をする。わたしはそれまでどんな絶望と手を繋いでいたのかもすっかり忘れて、並べられた揃いのマグカップに注がれていく液体をぼんやりと眺めた。ちゃぽちゃぽと可愛らしい水音と、真っ白い湯気。きちんと温めてあったのか、少しかき混ぜただけですぐに親しみのある深い赤茶色に変わる。
 コートを脱いで洗面台で手を洗っていると、横のタオルハンガーに掛かったそれからは草太の匂いがして、わたしは下を向いて口を引き結んだ。そうしないと、笑ってしまいそうになるし、そのあとに泣いてしまうかもしれないと思ったからだ。
 水気をパイル地に染み込ませるようにゆっくりと手をタオルで拭いて、さっさといつもの座椅子に鎮座している草太を追いかけるように隣に座る。
 まだ口をつけていないふたりぶんのココア、ローテーブルの上がいつもよりごちゃついているのは、わたしが来ることを本気にしていなかったからか。たいして恥ずかしがったり隠す様子がないのは、そういったベクトルのプライドはもうお互いにないのだという証左だ。
 隣に座って少し間を置いた後に草太がわたしの目を覗き込むように見た瞬間、わたしは夜の闇の中をびゅんびゅんと草太に向かって飛んでいた一本の矢のような気持ちが急速に萎んでいくのが分かった。
 澄んだ青空のような色の瞳に映ったわたしは、親戚の家に預けられた小さな子どものように縮こまっている。怖くないよ、と言いたげな瞳の大人が一番怖いと知っている子どももどきのわたしは、彼の微笑むように細められた瞳と伸ばされた手から逃げるように軽く身体を後ろに倒してしまった。
 わたしのマグカップを掴んだ草太が両手で包む様に持ち直して、持ち手をこちらに向けてくれる。いつの間にかこの部屋に置かれていた、草太が選んでくれたこのマグカップを使って、草太が淹れてくれた飲み物を飲む冬はもう何回目だろうか。

「持てる?」
「待って、熱い?」
「大丈夫」
「うん」

 ゆっくりと持ち手と底に手をやってマグカップを受け取ると、振動で波立つココアの水面にぼやけて歪んだわたしが映った。驚くようなぬくもりと、眠たくなるような香りが、膜を張るみたいに身体の周りに形成されていく。
 わたしが飲むまで自分のぶんに口をつける気がない様子である草太の視線を察して口をつけると、一口で止めにするはずが、小さな間を置いて、二口、三口、と進んでいく。甘い味が胃の中にとろりと流れ落ちていって、三口目の後にふうと息をつくと身体全体があたたまっているのが分かった。少しだけ、香りづけ程度に入っているアルコールのせいだろうか。
 一息ついた姿を見届けてから口をつける彼を見て、アルコールの分量が違うのだろうかとちらりと思ったけれど確認するすべはない。大きめの一口のあとに深い呼吸をした草太がテーブルに自分のもの、それからわたしのもの、と順に置いた。
 マグカップを手渡す時に一瞬だけ触れた指の先が怖いくらい熱く感じる。やけどしたみたいに、雷に触れたみたいに、じりじり、びりびりと痛むほど熱くて、そう感じた自分が怖くなる。それから間もなく、なんの前置きもなしに草太の顔が目の前、鼻が触れてしまいそうな距離になったときに、目の奥がちかちかして、指と同化するみたいにからだじゅうが熱くなっていく。

「明日仕事?」
「仕事で来てたらどう思う?」
「まずあり得ない」
「正解」
「じゃあ泊まるよな」

 耳と頬を隠すように垂れていた髪の一房が、彼の指先でそっと耳にかけられる。さりげない行動の瞬間一番に目に付いたのは長い睫毛で、それがもう少しで触れてしまうと思うほどにいつもよりも身体の、顔の距離が近い。最初に家を飛び出す前から正常な判断ができていないわたしでも、彼が上機嫌であることは充分に分かった。
 草太がわたしの腰を片手で抱いて、反対の手でわたしの目に掛かった髪をゆっくり払う。指の腹の温度はぬるく、遮るもののなくなった視界いっぱいに映る草太が「俺だけ見て」と本当に、本当にばかみたいに甘ったるい声で言った。
 やっぱりこういうときは泣いてしまいたくなるのか、と息ができないほどに苦しくなった心臓を感じながら草太を見つめると、彼は軽く首を傾ける。彼の目に少しだけかかっていた前髪が揺れて、魅力的な瞳が更に剥き出しになる。

「長かったなぁ」
「……え?」
「付き合って、初めてに我儘言われた気がする」
「え、別れるってこと?え?怖いんだけど」
「なんでそうなるの。が俺を頼ってくれて嬉しいってこと」
「……ご機嫌っぽいもんね」
「まあ、不謹慎だけど。そこまで追い詰められてる見て喜んでるわけだし」
「もうなんで落ち込んでたか忘れたわ、セクハラが凄くて」

 こんな時でも口吻ばかりは可愛げがなく、反射的に放った軽口に自分でも少し驚きながら目線を上げるとばっちり目が合い、草太がわざわざ目の形まで丸く作って心外だと言わんばかりに「セクハラ」と一文字ずつ区切るように口を動かした。
 交わした言葉も、示す行動も、全てが草太らしい、わたしの好きな草太だ。
 どちらからともなく身体の距離が近づいて、彼の顎がわたしの肩に乗せられる。ささやかな重み、ココアと、草太のシャンプーの香りが混じり合っているのが分かる。
 首の付け根と後頭部にふわりと彼の掌が当てられて、ただあたたかい、先程飲んだココアのひとくち目みたいな声がする。まるで子守歌みたいに優しい声は、本当になにか神々しい力で歌うように「来てくれてありがとう」と、そう、聞こえた。
 わたしの睫毛はいつの間にか濡れていて、草太の肩甲骨を這うようにてのひらを押し当てて、目をきつく瞑る。お化け屋敷に入る前の子どもみたいに震えたわたしの頭を、下手くそにそろそろと撫でながら草太は取り留めのないことを話していく。その殆どは耳に入ることなくするすると通り過ぎていくけれど、たまに、俺は、とか、仕事が、とか、会いたかった、とか、、とか、単語が断片的に聞こえた。
 それはタクシーに乗る前にラインを送った瞬間から全てまるで、夢だった。肩甲骨は羽の付け根で、草太は実は天使か神様の類でもう会えないのかもしれない。
 少し近づきすぎた身体を離し、それでも強く羽の付け根を掴んだまま、いつの間にか勝手に作っていたルールを押し留める栓が壊れていることに気付く。

「好きだよ」

 マスカラの繊維が瞼の下に散らばっているわたしを見返して、彼は目を見開く。
 たっぷり五秒くらい草太は固まって、その後に聞こえた声は、口の中でココアの味と混じって溶けて消えた。