迷い猫ライク・ア・ドッグ



 目が覚めたら、枕元に置いたデジタル時計は14時を示していた。
 休日はどうもいけない。特に前日夜更かしをしていたというわけではないのだけれども、予定のない安心感と寝床の幸福感に甘やかされるままに惰眠してしまう。けれども、もう14時とあってはさすがに眠りすぎてしまった。このままでは脳が溶ける。睡眠の摂りすぎで靄がかってしまっている頭に喝を与えなければと思い立ち、コーヒーでも淹れようかとベッドからするりと抜け出る。枕元には小さな生き物がその小さな痩躯を更に小さく丸めて眠っていた。
 空に浮かぶ白い雲の色をそのまま吸い取ったかのような澄んだ毛色をしたその生き物は雨の日に仕事の帰り路で拾ったもので、以来部屋に置いて暮らしている。それは所謂喋る猫というやつで、――本人が自分をそう呼んだから、わたしも彼をダイジン、と呼んでいる――大層わたしに懐いていて片時も傍を離れたがらない。眠るときですら例外ではなくこうして同じベッドの上で眠る。毎夜毎夜、枕元で小さくなって。放っておくと何時間も死人のように眠り続ける彼を起こさないようにと洗面所へ向かい、簡単に身支度を整えた後に洗面所を出るとベッドの隅でダイジンが眠たげな目をしてきょろきょろと辺りを見渡していた。開ききっていない目にはあからさまな不機嫌が滲んでいて笑ってしまった。主人のにおいに敏感な彼は、時折まるで本物の犬猫のような振る舞いをする。

「いるよ」

 後ろ手に洗面所の扉を閉めながら言うとダイジンははっとしたようにわたしを見て、数秒その姿勢のまま硬直したかと思えばぱたっとベッドに倒れ込んだ。半径10メートル以内に主人がいることに安心したのか、ダイジンはすぐに再び枕元で身体を丸めて健やかな寝息を立て始めた。どうやらわたしは、彼に相当愛されている。
 一人分のコーヒーを淹れて、部屋の中央に位置したソファに沈んでそれを空っぽの胃の中へと流し込んだ。ふたつ並べた一人がけのソファはどちらも天井から床まで貫くおおきなガラス窓に向けられている。それは絶景とは程遠いけれども街の生活のにおいが窺える、それなりに良い景色がよく見えるようにとそうしたものだけれども、生憎今はブラインドを閉めたままでいるので、この位置から物のないだだっ広い部屋には面白いものはなにひとつとして見えない。ただ、面白くはないけれども不思議なものは見える。
 役目を終えたコーヒーカップをシンクへと放置して、そういえば明日の朝は燃えないごみの収集日ではないかと思い立って家じゅうのごみをまとめにかかった。どうやら幸福な夢を見ているらしく、ふくふくと幸せそうに口元に笑みを湛えて眠るダイジンを起こしてしまわないようにとブラインドはそのままに、極力音を立てないように息さえひそめて。けれどもわたしの気遣いは結局無意味に終わってしまったらしく、ごみ袋の端と端をきゅっと結んで部屋を出ようとしたそのとき、むくりと徐に身体を起こしたダイジンに叱責するかのような声で名前を呼ばれてしまった。

いのり、どこいくの」

 "猫は液体"とネットで屡々言われているようなとろりとしたなめらかな動きでベッドを降りたダイジンは、秋の深まる昨今では見ているだけで寒々しい素足でてててと軽い音で床板を鳴らして傍に寄って来たかと思えば、まるでこれからわたしたちふたりが生き別れになるかのような風情でわたしの足に細い両腕をまわして抱きついた。抱きついた、というよりはしがみついたとでも言ったほうが正しいかもしれないこの仕草が、けれどわたしはそれなりに気に入っている。多少悪趣味かもしれないけれども、ダイジンの賢さを思ってひそやかに歓喜してしまうのだった。

「すぐ戻って来るって」
「どこいくの」
「ごみだし」
「ダイジンもいく」
「いいって寒いから」
「いく」
「じゃあ寒くないように帽子被る?」
「うん」

 わたしからするりと名残惜しげに離れたダイジンは、てててと足音を響かせながら隣の部屋に消えた。ダイジンという名前は、拾ったその日に本人がそう名乗った。猫が喋るというファンタジーもしくはスピリチュアルな現象に直面するのは初めてだったけれども意外とすんなり受け入れてしまっている。
 ダイジン、というなんだか物々しさを感じる響きの名前は一体誰がつけたものなのか、そもそも以前にも飼い主がいたのか、それすらも知らないけれども、わたしも存外気に入って彼のことをその名で呼ぶようになった。

「ダイジン」

 だからたまにこうして、特に意味はないのだけれども名前を呼んでやる。するダイジンが隣の部屋からとたとたと慌ただしく走って来た。帽子を被ることも忘れた体躯の小さな彼は普通の犬猫のように洋服を着せることすら叶わなくて、なぜ呼び付けたのかと頭のうえに疑問符をたくさん浮かべてわたしを見上げるダイジンの頭をわさわさと撫でてやれば白い肌を真朱に染めて笑う。ダイジンにしてみればひとの隣にいられることが嬉しいのだろうけれども、わたしにしてみればダイジンの主でいられることが嬉しい。彼がどこの誰かは知らないし、格別に知りたいとも思わないけれども感謝はしている。こんなにも可憐で賢い彼を捨ててくれたとは有り難い、とても賢明な判断だ。
 結局そのあとダイジンが適当に身支度を整えるのを待つ間ソファに腰を落ち着けてもう一杯コーヒーを飲んだ。部屋のブラインドを開け、外の景色を見ていたらなんだか少し良い気分になってしまった。空は晴れている。雲ひとつない、というわけにはいかないけれども、良い色をしている。

「ごみすていこう」

 身支度を終えたらしいダイジンはそんなことを言いながら当たり前のようにわたしの右膝の上に腰を下ろした。わたしは当たり前のようにダイジンの軽い身体を右手で掬ってコーヒーカップに口付ける。どうやらコーヒーのにおいが好きではないらしいダイジンがくっと僅かに、けれどあからさまに顔を顰めるものだから思わず噴き出しそうになってしまったけれども耐えた。

「ダイジン、ついでに散歩でも行こうか」
「さんぽ?どこに?」
「どこへでも」

 ダイジンは、この世の幸福が全てここに詰まっているかのような顔をしてにっこりと笑った。行き先の定まらない無計画な散歩の誘いひとつにこんなふうに歓喜を示す彼は、喋る猫であるというのに尻尾を振る犬のようで、雨の日にわたしが連れ帰ったのは犬であったろうかと首を傾げてみるけれどもわたしを見つめる彼の金目は確かに猫の持つそれだ。
 甘やかされるのがお好みらしい彼にキスのひとつでも与えてやろうと思ったけれども、コーヒーのにおいのするこの唇では嫌がられてしまうだろうと思い留まって丁寧に膝のうえから退かせたのち、空のコーヒーカップを再びシンクへと放置して、玄関先に置いたごみ袋を持ってふたり並んで部屋を後にした。
 さて、愛しい彼を連れてどこまで行こうか。