素敵なことね



「たとえばさあ、魚になったとするだろ?」

 彼が座ったソファの背もたれに肘を預け、身を乗り出してそう切り出す。はめんどくさそうにハア、と答えた。
 また山本の頭にお花が咲きよったとかなんとか思っているのだろう。スマートフォンのパネルを無表情に叩いていて、しかしその手は決してその電子機器を手離そうとしない。昨日だって電車の中に置き去りにしたくせに。そんなに大切ならなくしたり忘れたりなんてしないべきだ。
 なあ、と少し甘えたような声で呼びかければ、もおなんやねん、と彼は顔をあげる。ちょろい。獄寺と並ぶファミリー屈指のへそ曲がりだけれどもそれと同じくらいに優しくて、だからちょろい。十数年と付き合ってきたのだ。扱い方のコツだって掴めてしまっていた。

「たとえばさあ、魚になったとするだろ?」
「それさっき聞いた。」
「あ、ちゃんと聞いてくれてたのな」

 はなにも言わない。ただ青い虹彩の、光に弱い目は時折手元を気にする。人とお話するときはケータイいじっちゃだめだって習わなかったのな。シタシキナカニモレーギアリ。しかし人見知りで、そのうえ大変礼儀正しい彼のテリトリーに、俺は、ケータイよりも彼にとっては興味の薄いものらしい俺は、足を踏み入れることが許されているのだろうと思った。そんなことは十数年前に判明していたのに、やはりうれしくてにやつく。獄寺に対してもそうだけれど、彼らと会話が成り立つと、なんだか野良猫を飼いならした気分になる。

「そんでさ、海泳ぐだろ。沖縄の、キレーな海」
「おん」

 ケータイをさりげなく覗き込むと、しっかり横から見えないようにするシートが貼られていた。彼はやはりぬかりない。

「すいーって泳いでてな、俺、うーんなにがいいのな、」
「派手な色してんのやろなあ」
「だな、水族館にいるキレーなやつ、……そんで、俺、に会うんだ」

 こちらを振り向いた彼は「俺、ひとりでなんて海入らへんよ」と言った。色の白い彼は、日光に当たるとすぐに赤くなるからと海をそれほど好まない。まあどうせツナとか大切な人が行きたいなんて言えばすんなりと出かけてしまうのだろうけど。だってやはり、彼は親しい人にひどく甘い。……なんて邪な、あまりきれいでないことを考えながら、

「たとえばの話」

 と俺が笑えば、

「そか」

 心底どうでもいいような風には言う。

「水の中でもはキレーなんだろうな。晴れの日に、きらきらした海、泳いでるの見たいぜ」

 俺がそう言ったってだめ。俺は間違いなく彼の大切に名を連ねている、それでも彼の頑ななところを動かすには足らない。
もどかしいことだ。もどかしいことだけれど、の特別は一席しかないのだろう。

「なんで山本、魚にならなアカンの」
「んーん、だって俺が見てたら、気づくだろ?」
「ハァ、わけわからん!」

 俺はその特別な椅子に座りたいとは思わなくて、単に魚になって、透明な海を泳ぐ彼を見つめることができたら、もうなにもいらないのだ。でも、夢だったほうがいい。ずっと魚でいたら彼とも友人たちとも話すことができないからだ。一晩の夢で魚になって、彼に出会えたらいい。膨らむ妄想に含み笑いを漏らすと、なんやねんもう、なんて辟易した声が笑った。