「なんで俺は死なんのやろ」
響の言葉に、身がすくんだ。
ランクの高い任務を要求された日の夜だったから、お互いに疲れ果て、八人そろった僕たち以上にやかましいバラエティ番組などは下品に思えて見る気にもなれなかった。ぐったりとふたり並んでソファに身を預けた姿が、カーテンを閉め忘れた窓にうつる。ここまで歳を重ねてしまった、となんだかすこし切なくなった。
疲れているのならテレビの電源を切って寝てしまえばいいものを、結局チャンネルをまわしたのはなんてこともない、動物の生態を特集した番組だ。脊椎動物において、寿命が心拍数によって決められているという話。哺乳類の心拍数の上限はおよそ二十億回であり、そこに達すると死を迎えるらしい。けれどもその理論ではヒトの寿命は七十歳にも満たない。つまり平均寿命が八十歳を超えているイタリア生まれイタリア育ちのイタリア人である僕からしてみれば、その説は信じがたいものであった。隣にいる日本生まれ日本育ちの純日本人である彼だって同じであろう。いくら僕が実験動物にされた結果に六道の冥界輪廻を巡ってきた能力者とはいえ、けして不老不死ではない。しかも僕は先述したようにひどく疲れていた。命について深く考える気にもならなかったから、彼の恐ろしい呟きを黙殺して食後のココアを啜る。
「なあ、なんで俺は死なんのやろ」
無視されたことが気に障ったらしい。響は語気を強めてこちらを見た。彼の大きな青みの強い黒の双眸にははっきりと、僕の少し気の抜けた顔が映し出されている。
「急にどうしたんですか?」
「俺、ちっさいし」
彼はそこで言葉を切ったけれど、その続きについてはナレーターが穏やかに引き継いでくれた。
ネズミとゾウ。イヌとヒト。小さな哺乳類ほど鼓動ははやく、大きな哺乳類ほど鼓動がゆっくりである。同じ二十億回でも、はやく鼓動を刻むいきものは寿命が長くない。きっと彼は自分が小柄であるから、寿命も短いと踏んだのだろう。なにをばかなことを、と思う僕はやはり、この狭い島国で人並み(というには後ろ暗すぎる職業についてしまったけれども)の生活を送っていればいつのまにか七十歳など過ぎ去ってしまって、その数年後にポックリと死ぬだろうと信じて疑わない。そんな僕も、命について深く思案をする彼も、個人であるより先に一体のヒト、ホモサピエンス、つまるところ知恵のある人間であった。同じ生物種である限り、彼の寿命だけが三十歳やそこらとは考えられない。彼はネズミでもゾウでもイヌでもないのだから。
「心臓も、骸よりきっとちっさい」
「そんなの、たいして変わらないでしょう」
「わからんよ、俺のはお前らよりずっとちっさいかも知らん」
響はそう言って、薄い胸にちいさなてのひらをあてた。彼が視線を戻した五十五型の液晶テレビの中、ハイエナがシマウマの子どもを食い荒らしている。厳しいサバンナの現実だ。食料となった彼の鼓動は何回目だったろう。食事をしている彼の鼓動は何回目だろう。きちんと二十億回を迎えて息絶えるいのちのほうが少ないかもしれない、と思った。
彼の横顔を覗き見る。外のきらやかな夜景をうけてさながら絵画のような美しさだ。こんなにもうつくしいひとが、僕と同じ生きものだなんて俄かには信じがたい。けれどもこれまでの、僕たちの知らない歴史の中ホモサピエンスと名付けられたそのときから続く確かな事実は、数え切れない書物の重みでもって咸翳響はヒトであると、君の見ているそれはまぼろしだと、僕を指差し嘲笑っていた。夢見たっていいじゃないか。口に含んだ砂糖たっぷりのココアよりもずっとずっと甘い。僕は彼に甘い。
「と、と、と、って。ほら、やっぱりはやない?」
心臓の鼓動を口ずさむ彼が僕を見る。思わず同じようにして、僕も左胸に手をあてる。と、と、と。
「ああ、確かに、響は僕のそれよりはやいかもしれませんね」
「ほらやっぱり」
俺の方がちっさい。どこか満足げな彼は、ローテーブルにおいているマグカップをとりあげた。
「骸のほうが長生きやな」
「わかりませんよ、僕が先に死ぬことだってあるわけでしょう?」
「ありえへんし、俺よりは長生きしてもらわんと」
なぜ?と問うと響は僅かに微笑を浮かばせて、なんでも、と言った。「俺、骸のこと看取るのはいややねん」彼はひどく苦いブラックコーヒーを啜る。「お前は俺のこと看取ってな」彼はわがままだ。「ええ」しかしその彼を愛おしく思う僕は頷くことしかできなくて、だから一瞬、ほんの一瞬思った、乾電池のように彼と僕の心臓を取り替えられたらいいのに、なんて名案もすぐに色あせてしまった。そんなものくだらないわがままでしかなかった。響の願望は輝かしくも崇高な祈りで、僕の願望など薄汚い、コンビニのゴミ箱に置き去りの私利私欲。
マグカップを携えたままの細い肩を抱く。どうせ空だ。そのへんの雑貨屋で買った安物、落としたって構いやしない。サバンナではライオンがやはりシマウマを追っている。ヒトであるがゆえ、どうしようもなく他人事だった。幸せだった。腕の中に収まりそうな、骨の目立つ体を抱き寄せる。響はなにも言わずに身を寄せて、僕の胸に掌を乗せた。と、と、と。
「何回目だと思います?」
「そんなんわからんわ、骸わかる?」
「わかりませんね」
彼の胸に触れる。彼が口ずさむ僕の鼓動よりか、やはりすこしはやい。決して同じテンポではないから、近づいて、離れて、また近づいて、また離れてゆく。何十回にか一回だけ重なるその瞬間を待ち望んで、僕は彼の声に耳をすませた。