彼の運転は夜の底を滑るようで、とても静かだった。
仕事道具の入った重たい、けれどもう大分慣れているそれを掌で撫でながら、瞼が重くなっていくのを感じる。フロントガラスの形に切り取られた都会の光はやけにちかちかと自己アピールをしていて、曖昧な鼻歌が車の中で、音でも色でもないくらいの質量で漂っては消える、煙草の煙より早く、細やかに。
車を運転するディーノさんの右耳が良く見える、左ハンドルの車に未だ乗り慣れていないわたしを見てちょっとだけ笑った数分前。まだ疲れ以外、たとえばアルコール、に侵されていない頭の中で、これから向かう先のことを考える。冬よりもずっとぬるい暗さの紺と黒の狭間の色をした空を、右側に軽く首を向けて、縋るように確認した。ただ鏡代わりにわたしの顔が映り、年齢よりも老いて見えたのは、多分無意識下の猜疑心の名残だろう。
「仕事、忙しいのか?」
「ディーノさんほどではないです」
「それ言われたらな、でも俺も暦が思ってる程じゃないぜ」
「でも、流石にディーノさんの前で忙しいとは口が裂けても言えないですね、恥ずかしくて」
多忙極まりないスケジューリングの合間を縫って、二人でゆっくりと話す時間がこの車の中だけになりつつあった。理由も、目的も、お互いはっきりと言葉にできなくて、それでも時間だけを絞り出している。
部下が居なければ、何もないところで転ぶし武器は手からすっぽ抜けるしご飯ひとつまともに食べられない程、本領を発揮できないドジっ子属性の彼がわたしひとりを乗せた車を余裕で運転できている事実とその意味を考えて、毎度新鮮に打ちのめされてしまいそうになる。
イタリアの車メーカーでいえば好みなのはフィアットだけれど、左ハンドルの車の良いところは、ディーノさんの車だ、と実感できるところと、いつも違う、綺麗なゴールドのピアスが見えることだ。ハンドルを握る手は中世的な顔面と裏腹にひどく大きい。華奢なゴールドの少し細長い形のピアスが、今日もちらちらと揺れている。
いつもと同じ速度で世界は進んでいき、景色は変わっていき、同じように帰りたくないと思った。ディーノさん、という自分の声が顔に比べてずっと幼く響くのは、夜のせいで、疲れているせいでしかない。綺麗なイタリア語の発音で音がふわりと柔らかい唇の隙間から生まれる。それを中断する気持ちは微塵も起きず、ただ黙って、生まれていく音を、助手席に身体を埋めて聞いていた。
「……眠いか?」
「全然」
「なんか疲れてんのかと思って」
「人に運転して貰ってるのに寝たりしないですよ」
「じゃあ疲れてるわけでも遠慮してるわけでもない?」
「そんな、もう少し信用して、子ども扱いもしないで貰っていいですか」
滑っていく、すいすいと、見たことのない世界を、ディーノさん一人の意志でわたしはただ引っ張られていく。辿り着く場所がどこだとしても、ディーノさんのことを見上げて、隣に立っていつもと同じように驚く。肩幅の大きさ、手の分厚さ、見上げた時の首の角度、目が合って笑った時の恐ろしいほど無邪気に下がる目尻すべてに。
左手についている少し太い指輪が何かのライトに反射したような気がして、目を閉じた。ハンドルを握るディーノさんの指先は、いつも静かで、安定している、目つきは静かな、しなやかな獣のようなのに。
実際、最近はいつもより睡眠時間が取れておらず、そんななかこの時間を捻出したのは確かだった。けれど見透かすような言葉は、まるで子ども扱いにしか思えず、取捨選択やスケジューリングができていないとも思われたくなかった。身体を軽く起こして鞄を持ち直す、膝を隠しているスカートが少しだけよれて、そっと鞄を持ち上げて、直す。
変わっている、確実に、でもどこが変わっているのだろう、景色を見て、わたしはそう考える。真っ直ぐ、曲がり角、坂道、光、信号、また少し暗い道、なにもかも。
「子ども扱いされてるって思ってんのか」
「うーん、ちょっとだけ」
「まぁ当たってるけど」
「止めてください、もう」
「ああ、」
今まで聞いていた音の中で、いや、男の人と話した中で一番澄んだ声が聞こえた。まるで一滴の色付き水を薄い紙の上に落としたみたいに、鼓膜にじんわりと、確実にゆっくりと、広がっていく。ついた色は薄く、確実な主張をもってそこに存在していた。
騒がしく聞こえるはずのない、世界の音、風や外やエンジンの音が全部いっきに襲っては、消えてしまう。信号でゆっくりと止まった車の中で、ハンドルを一定のリズムで右手の人差し指で叩きながらディーノさんがわたしの名を呼んだ。
「じゃあ、もう大人扱いするな?」
言葉と視線の矢に、声が詰まって何も出てこなかった。絡み合った視線を十分に味わったディーノさんは、先にわたしから目を離して赤いままの信号機の光に目をやる。わたしは震える手を誤魔化すように鞄をそっと抱きしめる。いくつか浮かんだ言葉は、曖昧にしていたわたしたちの関係をきちんとしたい、と自分が思っているのだと気付かせる。
「じゃあ、わたしから言っていいですか」
「え?……何?」
「いや、ちょっと思ったことがあったので」
「それは、待って、油断してた、いや、油断も違うけど」
「なんですか、それ」
笑い声を上げると、震えていた手の感覚はいつの間にか収まっていた。
進んでいく夜の道がやけに明るく見えて、ディーノさんの造形的に美しい顔の表情筋が見たことのない風に動いている。
好きだな、最初から、多分結構ずっと。分かり切っていた感情を、あたたかいお茶をそっと飲むみたいに身体になじませる。
待ってという言葉の通り彼が何かを言うのをわたしは金色のピアスを見つめながら、じっと待っている。唇が紡ぐ淡い歌はいつの間にか終わり、先ほどより鋭い目のディーノさんがふう、と息を吐いて、わたしはちゃんと、大人の顔で心の準備をした。
ふ、と顔を上げると、ルームミラーの中で目が合って、彼はまた目尻を下げている。これから紡がれる言葉がなんなのか、瞳の甘いそれだけで全てが分かっているのはきっと自惚れでも勘違いでもない。彼の呼んだわたしの名前は、はじめての湿度を孕んでいて、わたしはただ、その続きが紡がれるのを静かに聞いている。