※10年後

太陽に触れてしまった



 綺麗になった、が、三十路になって暫く経った男性に、いや、彼に対しての褒め言葉として妥当でこそあれど順当ではないことは分かっていたので、飲み込んだ。お茶と一緒に流れていった彼の厭うであろう物言いの褒め言葉、というか、個人的純粋な感想をなるべく持たないように視線も一緒に外す。
 ディーノさんを見ていると、たまにどんなに遠い場所にいても視線が混じり合う瞬間があって、いつもいつも気のせいだと思うようにしていた。それでも、わたしよりずっと大きな瞳がどこを見ているか、例えば今は右隣の人をじっと見つめて話し込みながら一瞬その人の手元のグラスにも視線を落とした、くらいは分かる。
 きちんと人の目を見る、という教育をまっとうに受けているだけのはずなのに、ディーノさんに見つめられると、わたしはいつも心底困る。まっとうな人間でない自分を恥じ入る部分と、少しでもまっとうに見せようというどうしようもない背伸びの気持ちがぶつかり合うのだ。
 でも今日は無理に背筋を伸ばす必要もない。気落ちしながらも気楽に、小さな息を吐き出して椅子の背もたれに身体を預けて殆ど減っていない取り皿に乗った野菜の緑を見つめる。食欲がないわけではない、多分一人で家に帰った後に冷蔵庫を開ける自分の未来も簡単に予測できる。ディーノさんとは違う意味でわたしの目線は周りから剥き出しになっているのだろうか。先程唐突に立ち上がったディーノさんのいた席に吸い寄せられる自分の目線を誤魔化すように、また、見たって減るわけでも食べられるわけでもない野菜を見た。

「元気ないな、どうした?」
「全然、元気です」
「本当か?食べてないし、あっ、ダイエットとか絶対いらないと思うぞ」
「してないです、してないです」
「じゃあ、この前に予定合ったとか?」

 先程見ていた彼のうなじが見えなくなり、代わりに彼の瞳がこちらを向いている。手を付けられることなく、ただ置かれてくたびれているだけの食べ物を一口運ぶと、味がやけに染み込んでいるような気になった。
 魔法を使ったとしか思えないふうにディーノさんは向こうの席からこちら側へやってくる。わたしだったら人に席をずれて貰ったり、どんな理由があっても誰かの所へ最初の所から移動することは無い。ディーノさんはそういうことをいつも簡単であるかのように行うから、こういう人が世の中にいるから、最初と解散時の席が違うことが往々にしてあるのだな、と最近はよく納得するほどだ。自分ではできない事でも、他人にはそれがとても簡単だったり、当たり前の理論で行えることだというものをいつも初めてのように知っては忘れる。
 箸の進みが遅いだけの女の所に雑談をしにやってくる気安さと視野の広さが、わたしの視線を知らないのだろうか、と考えたりもした。姿勢を正しながら、わたしは戦うのと同じ気持ちでディーノさんの目を見て、言葉を返し、何事も無いように笑ったりして見せる。虚勢をはっていることを知られていても、虚勢をはることしかできないのは臆病だからだろうか。
 今日、仕事とこの約束の合間の二時間ほどの合間に喫茶店で飲んだ深い色の、徐々に苦く、温くなった紅茶の色が目に浮かんだ。あの色を見るとディーノさんの瞳の色を思い出していたけれど、今改めて見るとどちらかといえば沢田くんの瞳の色に近かったようで、ディーノさんの瞳はそれよりずっと蜂蜜色に近いオレンジだったと気づくのだ。またひとつ年齢を重ねたとは思えない顔を、綺麗ですねとまた言いそうになった。

「……髪、切ったんですね」
「ん、ああ、久々にな、少し」
「すごくお似合いだと思います、前も素敵でしたけど」
「で、予定あったのか、この前」
「ないです、一人で喫茶店で紅茶飲んでました」

 余りにも淡白な返答に虚を突かれる間もなく彼の質問に答えると、ディーノさんはきっちりと微笑んだあとで「そうか」と言った。イタリアーノは息を吸うように他人を、特に女性を褒めるとよく聞くものだから自分が褒められることに関しても然程拘ることはないのだろうと思ったけれども、何か気に障るような言い方にでもなってしまったのだろうか。わたしは訪れた沈黙に耐え兼ね、野菜をひとくちふたくちと押し込み、一瞬で皿を空にしたあと、また訪れたどうしようもない沈黙と対峙する。
 大きくつるりとした白い手を強調するような彼の骨自体が細いのであろうというような手首に浮かぶ血管を見て、髪や瞳を見た時と同じ綺麗さを感じて、またわたしは黙ってしまう。ディーノさん以外の人とはある程度の雑談を男女構わず行うことが可能なはずなのに、ディーノさんの、洋服から伸びる陶器のように細く白い、けれどわたしに重ねればずっと大きく、きちんと男性らしい手を見つめて、直ぐに言葉を失っていた。目線を上げても、目線を下げても、耳の後ろが熱くなり、考える言葉がいつも声にならない上に、行き止まりになっている。声自体も放つものが、想定しているよりもずっと固く、ごつごつとしたものになってから、空気の中を漂って、少しだけ居座って、消えていく。ディーノさんの横に座る自分の居心地の悪さを全てその声が表しているかのようだった。
 いつか、誰かに訊かれるであれば、嫌いなの、と、好きなの、どちらの疑問符が先なのだろうか。わたしの発露する感情をそこまで誰かが見ているとも思わないけれど、熱っぽい視線はわたしを見ていない彼にしか向けることができない。わたしを見て、わたしの目を見ている彼に向ける視線も声も、熱とは真逆の、もっと固くしぶとく意固地なものしか出てくることがないのだ。
 空になったお皿の次に、まだ空では無いお茶に手を伸ばし、飲んだような飲んでないような風にグラスに口を押し付ける。思った以上に喉が乾燥しているのは、暖房のせいでも寒さのせいでもない。深々と座った状態で頬に手を当てたままじっとこちらを見つめているディーノさんとわたしの間にある空気のせいだ。
 一人で喫茶店に行く人間と話すことがないと思ったのかもしれないけれど、ディーノさんは別に簡単に席を立つことができる人のはずなのに、いつもこうやってすぐさま席を立つことはない。まったくずっと隣にいることもないけれど、お腹がはちきれてしまう程の沈黙を味わった後に、ディーノさんはあっさりとどこかへ行く。わたしが動かないことや、逃げないことを確認しているみたいに。動かないのでも逃げないのでもなく、そういった術をわたしが知らない上に行えないから、というだけなのだけれど。

「ねえ、さん、ちょっと」
「どうしたの」
「こっち来て」

 かけられた声に視線を向けると、机を二つほど挟んだ反対側で携帯の画面を見せながら沢田くんがわたしを見ていた。携帯の画面は真っ暗で、画面の内容は別段なんでもいい、ただ彼がそれを行うときは何か公で話せないけれど話したいから、という何かの合図だった。今日この場にいない、彼からさんざん聞かされている想い人の顔がふと過る。そういえば、夕方もまだ連絡がない、と電話で泣きつかれ、恋愛というのは疲れるものだと他人事のように考えていた。肩が軽くなったわたしは指先で丸を作り、彼に見せた後、テーブルに手を置く。

「あ、ディーノさん、すみません」
「……行くのか?」
「呼ばれたので」

 燃え盛る火に水をかけてもここまで静かにはならないだろうというほど、自分の気持ちが勢いよく潰れていくのが分かった。わたしの方を見つめている沢田くんの視線と、ディーノさんの視線と、どちらもが多分、感情の分量を乗せてわたしの身体を鋭く刺している。
 席を立ってここから逃げてしまいたい、願いながらも一瞬で失われたひとつの視線の相手の方を見ると、彼はもうこちらを向いていなかった。一度見計らったようにわたしを見た目が、獄寺くんに絡まれて寧ろ楽し気になっている分、ぐずぐずになった身体のまま、テーブルに置いた手を離すしかなくなる。本当は立ち上がる勇気もなかったのだけれど、彼のせいにしてしまいたくなるから、わたしはつくづく傲慢だ。

「行かなくていいのか?」
「大丈夫になりました」
「良かった」
「なんでですか」
「行こうとしてたら、多分止めてた」
「……ディーノさんってよく分からないですよね」
「俺のことそんな風に言うの、だけだと思うぜ」

 ディーノさんがきちんと言葉を、深くもなく、浅くもないところに着陸させて、また沈黙が間に広がる。
 よく分からない、離れたくも、近づきたくもないのだろうか。
 またきっと少ししたらいなくなるであろう、容赦なくわたしに何かを聞くでもなく立ち上がるであろうディーノさんの、十年前を彷彿とさせる程に短くなった毛先を眺める。物珍しい動物を見るような目と、まるで丁寧に作られた人形のような睫毛を、甘く少し下がった目じりを、見返す。

「じゃあ、わたしも止めます」
「え?」
「別にディーノさんがどこに行ってもいいんですけど、なんか癪なので」
「行かねえよ、が嫌なら」
「そこまでは言ってないです」
「そう思ったら止めてくれな」

 多分、止めてもどこにでも行ってしまうであろうはずなのに、ディーノさんはそう言って笑った。ちょっと子どもみたいに、唇を指先で触った後に、薄い唇をちょっとだけ歪めるようにして。
 はっきりとしすぎた声がその言葉の真実性みたいなものの輪郭も一緒にぼやけさせていく。似合っていると思っていた髪も、蜂蜜のように蕩けるような甘さを持つ瞳も、白い腕も、全部がぼやけていく。
 止められるほどの言葉の力を信じていないわたしが何も言わないことをディーノさんが知っていて、わたしは何も話せないのだ。自分の欲望通りに全てがいかないのなら、ひとつも願わない方が早く、だからこの人の前では頭が真っ白になってしまう。
 本当に、わたしが引き留めたら立ち止まってくれるのだろうか。見返すことを戦うこととしていた視線の形をちょっとだけ柔らかくして、改めてディーノさんのことを見る。何も言わずに小さく首を傾けて疑問の表情を作ったディーノさんに「信じましたよ」と告げると、心外という顔で「信用無いよな」と彼は言った。どんな風に笑ってもディーノさんが綺麗で、彼のうなじを先程熱っぽく見ていたわたしとここに座っているわたしが同じであることをやっと思い出す。
 小難しく意固地な自分のまま、それでも背筋を伸ばして彼と話ができることを見失わないように、「信用してます」と、自分に言い聞かせるようにそう笑ってみた。