ひねもす逃避行



 新車のにおいはすっかり消えた。代わりに唯則が時折つける、少し甘い、ジャスミンの残り香が消えなくなった。煙草も吸わなくなったから、もうなんの匂いも染みつかないだろうと思ったのに。ハンドルを握り直して気づかれないように鼻を鳴らす。やはり空気が甘かった。

 どこまでも行けたらいいねなんてきっと誰もが思うことだ。そのくせ、今までにぶつかったどんな難題よりも難しいことのように思えた。思えた、というよりか確実に難題だった。不可能に近くて、しかしそれを口に出してもなんてことない、大丈夫、そう言って笑い飛ばせるくらいの関係じゃない。揺るがない関係とは程遠い。誰より不安定な俺と、他人の機微に敏い唯則と、四六時中ぐらぐらした心を二つ持ち寄ったって。なぁ。
 唯則は助手席で瞼を重くしている。「唯則、寝たらどうだ」「コウくん運転かわろうか?」「いやお前ペーパードライバーだろ」「こないだ出動で乗ったから」微妙に噛み合わない会話を交わして、唯則は結局「コウくんが運転してるのに寝られないよ」と笑った。真夜中の郊外の道路は大型トラックが行き交い、まばらに走る乗用車を横目に見ると男女の二人組が多い。俺たちも彼らも、どうせみんな同じようなことを考えている。

「どこにいく」
「その話さっきもしなかったっけ」

 唯則が笑った。どこにいく、もう一度問うと、彼女は海、と言う。車に乗ってから四回目のやりとり。唯則は暗い車内で光るカーナビを一瞥して、たまたま目に入ったのだろう海浜公園の名前を口にした。見たことも聞いたこともない名前だ。故郷でも住み慣れた土地でもないところまで来たのだから当然。カーステレオは黙ったままだから、窓を開けるとかすかに波の音が聞こえた。潮のにおいも探したけれど、嗅ぎとれたのは依然として甘い、ジャスミンのにおいだけだった。
 ハンドルを右に切ると、ライトが古びた看板を照らした。ずっと進むとアスファルトの感触もなくなって、そこそこに値の張る俺の愛車は容易く砂浜に空回る。

「コウくん車、」
「おう」

 進まない。おもしろいくらいに進まない。
 アクセルを踏むこともなんだかバカらしくて(理由はきっとそれだけではないけれど、)さっさとブレーキをかけた。帰りのことなんてもうどうでもよい。エンジンを切って車の外へ出ると、ようやく潮のにおいがした。
 ザアザアと波の音が繰り返す。時折後ろの方で車のライトがきらめいて、振り返るとそれもずいぶん遠くに見えた。あの道からそれほど逸れてしまっただろうかと不思議に思う。もしかして物理的な距離の問題ではないのかも。そう勘繰ってしまうくらいに遠かった。唯則も同じふうに感じたようで「帰れるかなあ」なんて不安げに呟く。数十分前にはどこまでも行けたら、そう言っていたくせに。

「ここどこかな」
「わからないが」
「コウくん、帰れるかな」
唯則が帰りたいんならいつでも帰れるぞ、ナビはある」
「そういうことじゃないよ」

 じゃあどういうことなんだ。真っ暗な明かり一つ見えない海を睨んでいる唯則を盗み見た。そういうことじゃないよ、て。そういうこと、がどういうことなのかもなにがそういうことじゃない、のかも皆目見当がつかない。「帰りたくないなあ、コウくん、ここにずっといようか」泣きそうに彼女が呟いた。何人いるのかわからない唯則のうちの、寂しがりで悲観的で女々しい、どうしようもないくらい愛おしい唯則が呟いた。「いいぞ」全然何も良くないけれど。唯則は一筋だけ泣いたようにみえて、キスを落とすとやはり、ジャスミンが香った。