銀河の在処



 の部屋にはたくさんの紙の本がある。父親の趣味が読書で、その影響を受けたらしい。もちろん自身も読書が好きだ。それを聞くと、学生時代他の科目に比べて現代文や古文の成績が良かったというのも納得がいく。俺は5歳から更生施設に入れられて今は執行官だし、部屋に小説が全く無いから読んだことがあるというのは事件のファイルや資料だけのようなものだった。それでさえ紙でということは滅多にない稀有なことだから、ただでさえ入手しづらい紙の本をわざわざ申請してまで読みたいとは思わない。だから、と正反対で本とはずっと無縁だった。

「お風呂上がったよ」
「はーい。じゃあ私入ってくるね」
「ん」

 翌日が非番になる日は、の部屋に泊まることが多い。今日もその内の一日で、当たり前のように一番風呂に入らせてもらった俺と交代で、はお風呂に行った。濡れた髪をタオルで拭きながらその姿を見送る。適当にベッドに座ると、視界にふと大きな本棚が映った。いつもは気にしていない本棚だけど、今日は何故かそれが気になった。

 500冊くらいは優に入るだろうその棚にはぎっしりと本が詰まっている。今では絶版になってオークションなんかに出したらとんでもない額がつくであろうものがほとんどで、セオドア・ローザック、コナン・ドイル、東野圭吾、伊坂幸太郎など和洋を問わずさまざまだ。オルテガやプルースト、主にハードボイルドを好んで読むコウちゃんと頻繁に本の貸し借りをしているらしいはしかし、俗にいうミステリーを好んで読んでいる。それを訊くと「昔はホームズに憧れてたんだよね」と少し恥ずかしそうに笑っていた。
 その中から、一つ惹かれるものがあった。それは沢山ある本の中でも、唯一の絵本だった。かなり年期が入っているから、小さい頃から持っているものだろう。有名な作家のもので、さすがの俺もその絵本の名前は知っていたけど、読んだことはなかった。それでも興味を引かれたのは、きっと表紙の絵のせいだと思う。それはキャンパス一杯に銀河が描かれていた。鮮やかだけれどどこか暗闇が潜んだような色の銀河に線路が渡され、鉄道が白い煙を上げてその上を走っている。とてもさみしく幻想的な一枚で、思わず目を奪われてしまったのだ。

「なに見てるの?」

 後ろから声が降りかかってきて、そっちの方向を向くと、いつの間にか上がったらしいがそこに突っ立っていた。本棚の物色でかなり時間が経っていたようだ。前に本はほとんど読まないと話したのを覚えていたのだろうか、本棚の前にいる俺を見ては少し嬉しそうな表情をしていた。

「これ」
「ああ、それか」
「一つだけ絵本だなって思って。あとこれだけすごい年期入ってるじゃん」
「うん。幼稚園の頃お母さんによく読んでもらったやつなんだけど、ずっと好きなんだよね」
「へぇ」

 ぺらぺらとページを捲る。年期が入っているとはいえ、それは破れたり汚れたりということは一切なかった。それほど大事に扱われていたのだろう。

「なあ、これどういう話なの?」
「え?」
「読んでよ、絵本」

 に無理矢理絵本を押し付ける。は困ったように笑って、「私こういうの、あんまり得意じゃないんだけどな」と呟きながら絵本の1ページ目を開いた。

「『ではみなさんは、……』」

 話の筋はこんなものだった。貧しくてみんなとは一線を画している少年と、人気者でやさしい少年。祭りの夜、二人はあることから銀河鉄道に乗る。銀河を回って色々な乗客に会って、貧しい少年は「本当の幸せ」が何なのかということを考える。すると隣にいたやさしい少年の姿が突然消え、彼はいつの間にか銀河鉄道を降りていた。やさしい少年は、友人を助けようと溺れ死んでしまっていたのだ。

「……それってハッピーエンドなわけ?」
「私はハッピーエンドだと思うよ。ジョバンニは本当の幸せを見つけられたんだし」
「でも、それはカンパネルラが死ぬっていう犠牲があったからだろ?」
「そうだね……きっと、人によってハッピーエンドかどうかって違うんじゃないかな」

 いくらかは端折って話してくれたけど、長い話だったからずいぶん夜は更けていた。時計の短針はとっくに頂上を過ぎている。ふわあと大きなあくびをすると、それを見ては少し笑った。

「もう1時だし、寝ようか」
「ん」

 の提案に頷いて、ベッドの横に用意してもらった布団を敷いた。「おやすみ」「おやすみ」と挨拶を交わして電気を消す。布団に入ると仕事明けで疲れていた身体はすぐに重くなって、やがて眠りに引きずり込まれた。



 次に目を開けると、俺はの部屋ではなく、どこか違うところにいた。ここは電車なのだと気付いたのは、開いていた窓の外から線路を走る音やカンカンという信号機の音が聞こえたからだ。がたんごとんと電車が揺れる。窓の外に顔を出すと、目の前にはたくさんの星がいつもより近くに現れた。「縢、そんなに身を乗り出したら落ちちゃうよ」と声がして、車内に目を戻すと俺の向かいにが座っていた。

、ここは」
「銀河鉄道じゃない。ほら、切符持ってるでしょ」

 そう言われてズボンの右ポケットを探ると、そこにはくしゃくしゃになった切符があった。その切符はたくさんの十が書いてあって、の切符のものとは少し違っていた。何でだろうと首を傾げると、が「縢の切符は特別なものなんだよ」と教えてくれた。

「特別なものって?」
「天上にもどこにでも行けるやつだよ」
「天上?」

 天上という言葉に首を傾げる。はふふっと笑って窓の外に目をやった。外の銀河はキラキラと輝いていたけど、少し悲しみの色を帯びていた。

「あ、ほら、天の川だよ」

 に言われて下の方に目をやると、天の川が電車の横を流れていた。星の粒がきらきらと輝いていてまぶしかった。

「綺麗だね」
「うん。ずっと縢と一緒に見ていたかったなぁ」

 どこかひっかかるの言葉に「え?」と聞き返した。でも返事はなくて、の方を振り向くとそこにさっきまでの姿はなかった。立ち上がって辺りを見回してもはどこにもいない。車内には俺だけがぽつんと取り残されて、『まもなくサウザンクロス、サウザンクロス』という車掌のアナウンスが虚しく響いた。



 目を開けるとそこは銀河鉄道ではなく、元いたの部屋の天井だった。布団から飛び起きて、ベッドの上を見る。そこにはさっきと同じように眠るの姿があって、ほっとした。それと同時にさっきの夢でがいなくなったことになんだか怖くなった。クーラーをつけていたというのに、身体はびっしょり汗をかいていた。背中がじっとり濡れていて気持ち悪い。頬に伝う汗を手で拭う。すると物音に気付いたのか、唸り声を上げての目が重そうに開いた。

「かがり……?」
「あ、起こしてごめん」
「……どうしたの?なにかあった?」

 寝ぼけ眼を擦りながら、は俺の表情を覗きこんできた。いつもより顔が随分近くてドキドキする。

「夢、見た」
「ゆめ?」
と二人で銀河鉄道に乗ってて、でもいつの間にかがいなくなってて」
「……わたしは、カンパネルラじゃないよ」

 はくすりと笑った。そして二人で寝れるように少し壁に寄って「おいで」と手招きをした。ベッドに乗るとお互い密着する形になって、との距離がぐんと近くなる。

「不安になったの?」
「うん」
「……じゃあさ、こうすれば不安は無くなるかな?」

 ぎゅ、と手を握られる。の手はあったかくて、どこか懐かしい感じがした。さっきまでの恐怖もすぐに解消されてゆく。俺を包んでくれるそのあたたかさは、宇宙に似ていた。

の手、あったかいね」
「よく言われるよ」
「……なんか、宇宙みたい」
「宇宙?」

 の手からは小さな星々が次々生まれていくようだった。キラキラと輝いているそれらは大きな光を求めて集まり、やがて銀河になる。その銀河は夢で見たものとは違ってとてもあたたかい色に包まれていた。なんだか、すごく幸せだ。

「なんかさ、わかったかも」
「え、何が?」
「内緒」
「何それ、変な縢」

 くすくすと笑いあって、それから二人とも眠そうにあくびをした。同時にあくびをしたから、それが面白くてまた笑いあった。時計を見ると、まだ3時半を少し過ぎたところだった。朝までにはまだ時間がある。

「まだ夜中だし、もう一回寝ようか」
「ん。……あ、
「なに?」
「おやすみ」
「……うん。おやすみ」

 と手を繋いだまま、もう一度目を閉じた。やっぱりすぐに睡魔が襲ってきて、意識がゆっくり遠くなっていく。でも、今度は心地よく眠れそうだ。だって隣にがいる。
 あの絵本の中で、ジョバンニは本当の幸せを知るためにカンパネルラを失ってしまったけれど、俺は何も失わないよ。
 俺の本当の幸せも銀河も、すべてはの手の中にあるのだから。