ヒュウヒュウと呼吸音がうるさい。肺が痛み、喉が切れて血を吐くような頻度で咳を繰り返す。
「チカくん」
「なんだ」
「ころして」
「駄目だ」
宜野座は眉根を寄せて、唯則の手首を握った。大変な高熱を出してもなお死人のように冷え切った手首はしかし、確かに脈打っている。部屋にはふたりきり。狭いソファーで窮屈そうに縮めた身体を咳の痛みでもってさらに折り曲げて、唯則はすこしだけ笑う。
「くるしい」
「そんなの誰だって一緒だろう」
唯則はうん、とだけ言った。未詳のフロアで響くやかましい怒号、笑い声、幾多の靴音、すべてを生んだ人。仲間を深く深く愛して、大切に操る聡明な人。赤い目にそのすべてを吸いこんで、瞬きの度に宜野座の世界をうつくしく変えた。創造主、偉大なる神。仰々しいあだ名をつけてみても、なんだか妙に馴染んでしまう気がする彼女、その夜ばかりはひどくちいさく弱く、幼く見えた。
「わたしがしんだら」
「そんな不吉なこと言うんじゃない、ただの風邪だろう」
「わたしがしんだら、だれにもいわないでほしい、それで、チカくんだけで、もしてね」
灰にして。灰にして、真っ黒い絵の具に混ぜて、それでミショウの壁を塗り替えて。ああでも塗り替える筆は、刷毛は、私の髪の毛使って。チカくんが一本ずつ、抜いてね。なんかそういう話あったよねえ、カツラつくるやつ。でも刷毛だよ、刷毛作ってね。私の髪で刷毛作って、真っ黒い絵の具つけて、塗ってね。私がいないってほかのひとが言ったら、チカくん、なんにも知らないふりしてよ。知らないうちに死んだことにして。そんで執行官なんてやめちゃいなよ。好きにして。紗綾が文句いったらチカくんが引き止めて。まあ、紗綾もここ出て行く宛てなんて、……ねえ。執行官なんてやめちゃいなよ。こんなの、私が、私がやらせてるんだ。私がいなかったら要請受け付けるやつもいなくなる、だから、そのうち要請もこなくなるよ。そしたら、やめちゃいなよ。チカくんたちをこんなふうに引きずり込んで、ごめん。ごめんね。ごめん。
「ぜんぜんごめんじゃないだろう」
数日後に全快した唯則はこの夜の懺悔について、なにも覚えていなかった。宜野座は掌に彼女の脈を覚えていた、だから時折目を瞑って、唯則の声を思い出す。宜野座がなぞるその声は穏やかで、弱弱しく、今にも泣き出しそうなそれだ。凛とした背中に隠したもの、スーツで身を固めて必死に守るもの。唯則の閉じた心臓部分をなにもかも一緒くたに見てしまった気がして、だから宜野座はもう、決して決して、戻れまい。