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僕と鳥籠、君と水槽



 人間の心理状態や性格の傾向を計測した値をこの時代の人々はサイコパスと呼び、心の在り方や魂そのものを判定する基準としている。そして市民のサイコパスを解析し、深層心理の願望や職業適性を診断する包括的生涯福祉支援システム――それが、この社会を統べているシビュラシステムである。「成しうる者が為すべきを為す。これこそシビュラが人類にもたらした恩寵である」そんな標語を掲げているけれど、果たしてどこまで真実なのか。


「……“この世はシビュラに支配されている”」


 よくわからないなあと思いつつ誰にも聞こえぬような声量で吐いたはずのため息は、意外にも静謐な湖面のような穏やかさを保っていた部屋に言葉という小石を投げ込んで波紋を起こしたように響いてしまった。自分以外に所属する人間のいない部署なのが幸いだったというべきか、しかしその声色は無知な赤子のような人間の本性を露わにしていた。未だにこの時代の遣り方が理解できないと思うことは少なくなくむしろ多いくらいで、本来であれば色相が濁るからという理由で人々が放棄した考えであるけれどに限ってはその心配は杞憂であるがために、もはやこの世界の全てに疑念を抱かずにはいられないのだ。危機管理能力を自らで持たざるとも生活ができてしまうくらいに発展しすぎた科学にも、管理されているというには些か未然防止が杜撰すぎる人間の心理状態にも、シビュラに頼りすぎた人間の堕落しきった現状にも、潜在犯という単語で軽視されすぎた人種差別にも、正義の名を振りかざし人間を処刑するドミネーターにも。「やりすぎなければ正義じゃない」と言っていたのは誰だろうか。しかしこれは十二分にやりすぎだろうというのがの思うところであった。
 ひょんなことから100年前なんていう世紀単位でカウントされてしまう時代からこちらに来てしまったにとってこの100年後という時代の仕組みは生き地獄もいいところだと思ったが、既にこちらの基準では亡くなっていて然るべき存在であるにはドミネーターの執行が作動しなかったのである。色相も犯罪係数も計測できるのに執行ができないとは此れ如何に。ちなみに色相はライトシアン、犯罪係数は15であった。この時代でいうところのメンタル美人のメカニズムも数値としてのデータがどのように自らへ作用するのかもよくわからないが、いずれにせよノンリーサルパラライザーにすら形態変化しないドミネーターはただの鉄屑、殴殺撲殺程度にしか使えない鈍器と同等だと思った。装填する弾数こそ限られているけれど拳銃のほうが身軽だし携帯能力も高いし遥かに便利なのではないか、とも思ったのだが説明されても正直ちんぷんかんぷんなのであまり詳しく突っ込まないほうがいいと考え直した。決してそれで納得しているわけではない。そしてこれらが後々免罪体質者と相見えた際に仇となることとなるのだが、先詠みなんてチートじみた能力のないには勿論知る由もないことなのである。
 さて、某過負荷のように因果律を操れるわけでもなければ某アブノーマルのように全ての事象を観察して完成させるスキルを持っているわけでもなく、ついでに言えば某悪平等のように7932兆1354億4152万3225個の異常性と4925兆9165億2611万642個の過負荷、合わせて1京2858兆519億6763万3867個のスキルという週刊少年ジャンプも裸足で逃げ出すインフレを持っているわけでもなく、ただ普通に刑事としての仕事(ただしスペックホルダーとの戦いを除く)をこなして過ごしていた、“人よりちょっとだけ動体視力が良い”程度のにとって、シビュラが人類を支配するこの世界は決して居心地が良いとは言えなかった。そしていっそ叶うのであれば今すぐに現世に戻りたいと願うばかりである。ちなみにこの場合の現世はの存在しうる100年前のことであり、ここは尸魂界ではないことを一応確認しておく。科学の発展しすぎたこの時代では死神という存在はフィクションも同然であり(100年前からフィクションではあったわけだが)とにかくこちらでいうところのシビュラ世代では死神や悪魔などという言葉はどちらかといえば執行官へと揶揄される。同じ生きている人間なのだから予備軍であろうがなかろうが関係がないだろう、という屁理屈はこちらの法で弾かれてしまうようだ。まあ100年前にも危険だと認知された犯罪者に貼り付ける指名手配という表記があったためそれと同じようなものだと言われてしまえばそれまでなのだが、厳密に言えば潜在犯は犯罪を犯してはいないが犯罪を犯す可能性のある人間へも差される単語で、そこが100年前の刑法との目立つ相違点でありが些か理解できないと苦言を呈している箇所なのである。正直なところ、潜在犯が過ごす隔離施設はとても人間の扱いとは思えない。100年前では散々騒がれて重要視されてきたプライバシーや人権侵害という概念を燃えるゴミの日に棄ててきてしまったようだと思ったのはここだけの話である。基本的人権の尊重はどうした。第日本帝国憲法は、三本柱はどうした。
 また、こちらで起きる事件の質、所謂残虐性や過度の具合というものはかなりの知っているそれらよりもエスカレートしており、シビュラで管理されていることの意義そのものを疑ってしまった。いっそDNAのみで国民のデータを管理してしまったほうが犯罪率は下がるし相対的に検挙率は上がるしちょっと平均から外れたというだけで更生施設送りにされる人間も減るのでこんなにメンタルケアへ依存することもなくなるし万々歳なのではないかと思ったが、よくよく考えればあれは某天才数学者ありきの実現でありこの時代に彼女に相当する人間がいるとは到底思えない。遺伝による犯罪係数の上昇云々の話は宜野座から聞いていたがそれを話す彼の表情を見るにきっと身近な人間のこと、そしてただの憶測ではあるが恐らくあれは宜野座自身の話だったのだろうと思う。彼が潜在犯の身内を憎もうが恨もうがの知るところではないが、その生真面目さが自らの首を絞めていることに気づいているのかいないのか。もう少し楽観的に生きればいいのにと、言えないのはそれがシビュラがまだ生まれていない時代に漬かっていたにシビュラ信仰派の宜野座を納得させられる説得力などないからに他ならない。シビュラが生まれる以前の生活を知っていた征陸なら同意してくれるだろう、しかしそれは言わないし言おうと思わなかった。お得意の刑事の勘とやらと皮肉られる征陸のポーカーフェースは崩れない。当たり前の事象であるが、ただ自分の意見を述べたとして、それは相手に真意が伝わらなければ意味を成さないものであることは100年経った今でも変わっていない。
 も所謂ゆとり世代と云われる中で育ってきたが、ここまで自己管理の疎かな生活は100年前では決してあり得なかった。シビュラ世代と云われるこの時代に、現実と虚構が混ざり合う世界で何が本当で何が幻なのか人々は見失い続けている。