呼び出しを、くらった。とはいっても生徒指導部や果たし状なんかにじゃない。小佐内さんじゃあるまいし、僕だってそうそう民事事件に巻き込まれたりはしない。一昨年は一昨年で、去年は去年、もう過去のことだ。一朝一夕ではうまくいかないと覚悟はしていたのだから、タルト事件のこともパフェ事件のことも、そして栗きんとん事件のことも、人間の業ということで片付けさせてもらう。
今日の朝、下駄箱に「放課後、5時までに三年B組の教室に来てください。 小鳥遊ゆか」と書かれたルーズリーフの切れ端が突っ込んであった。今年になってからは初めてのお誘いなわけだけど、去年のことを考えるとどうも警戒心を持ってしまう。まあ、今回は名前も書いてあることだしあまり心配する必要はないかもしれない。名前を見る限り女子だろう。見覚えはないから知り合いではない。
季節は秋でそろそろ冬も近い。受験生としてはあまり自分の時間を割いてまで他人の誘いに乗じるわけにはいかない。だけど、まあ、これも小市民的だと思えば苦じゃない。息抜きはいつだって必要だ。
ガラリと音を立てて指定された教室のドアを開ける。自分のクラスではない教室に入るのは夏ぶりだったろうか。いつか覚えた感慨だけど、自分のものでない教室は居心地が悪い。幸いにも人がいたから待つことはなかったけど。
「ん、来たね」
机に向かっていた女生徒が顔を上げてこちらに視線を寄越した。十中八九、彼女が小鳥遊さんだろう。
立ち上がり僕に向かい合うように立つその姿を少し観察する。椅子を引く音も足音もない。育ちがいいのかただ単に癖なのかはわからないけど、気配を殺すのが得意そうな雰囲気を醸し出している。
「小鳩常悟朗くん、で合ってるよね?」
「うん」
語尾にクエスチョンマークがあるのに有無を言わせない迫力があった。確信があったんだろう。僕が小鳩だという確信が。つまり、ただの確認作業だ。彼女の目的はどうやら名前を訊くことじゃないらしい。当たり前だけど。
「私、小鳥遊ゆかって言うんだけど。急に呼び出してごめんね」
「ううん、構わないよ」
愛想笑いを貼り付けて軽くかぶりを振ると、小鳥遊さんは満足げに少し口角を上げた。
背は、小佐内さんより15センチほど高いくらい。小佐内さんは小学生でも余裕で通るけど、小鳥遊さんはたぶん中学生がぎりぎりだろう。
表情は依然として笑顔。しかし満面ではない、恐らく僕と同じ愛想笑いだ。小顔で、髪はショートだけど襟足が長く後ろに跳ねている。船戸高校の校則的側面から見て、恐らく地毛であろうくすんだ金髪。どちらかというとベージュのほうが近いかもしれない。どちらにしても、高校生としてはあまり見かけない髪色だ。
「私、回りくどいの嫌いだから単刀直入に訊くね。小鳩くんさ、十希子と別れたんでしょ?」
デジャブだ。
反射的に「誰だっけ、十希子って」と言おうとして、少し逡巡する。…ああ、仲丸さんか。なんだか前にも同じことがあった気がする。あまり、いい気分ではない。
「……うん、別れた」
「こっぴどい振られ方したんだってね、冷徹人間みたいなニュアンスのことごちゃごちゃ言われた挙句に『あたしもそうだけど、君も最低だった』だっけ?」
憐れに満ちているわけでも楽しそうでもない小鳥遊さん。そもそも、なんでそんなことまで知ってるんだ。……いや、僕は知っているんじゃないか。誰と誰がくっついたか見張ることだけを生きがいにしているような情報屋を。
そうだ、吉口さん。カバン盗難未遂事件の時と、連続放火事件の時に少し話した。彼女なら、仲丸さんと別れたその理由を事細かく知っていてもおかしくはない。
「まあ、十希子は自業自得かな。二股しといてあの言い方はないよねぇ。それを怒るでもなく傍観決め込んでた小鳩くんも大概だと私は思うけど」
結局、彼女がどちらの味方なのかはわからない。いや、たぶんどちらの味方でもないのだろう。
中立的と言えば聞こえはいいけど、どちらも同等にしか見ていない気がする。上から目線とか見下してるとか、そういう次元じゃなく、僕らを平等にしか見ていない。そんな感じだ。
「普通だったら浮気なんてされたら怒るじゃない?なのに小鳩くんは何も言わずにへらへらしてた。だから十希子はそれを諫めた」
へらへら、っていう言い方はどうかと思う。否定はしないけど。いつも愛想笑いを浮かべていれば、それはへらへらと言われても仕方ない。
「でもね、私はそうじゃないと思う」
ふっと、先ほどまでの笑顔を消し去ったように真顔で、素面でそう言う小鳥遊さん。
しかしその無表情も一瞬で、すぐに微笑みを戻した小鳥遊さん。その笑みには、覚えがある。
「……だって、小鳩くんは“小市民”じゃないもの」
――ぞっとした。背中に冷たいものが走る、なんてものじゃ済ませられない。全身が凍りつくほどに。ぞっと、した。
「小佐内さんとヨリを戻した、って吉口は言ってたけどね。それは違うでしょ?」
一瞬見せた冷たささえ感じる無表情とは180度違う、満面の笑み。
もしこれが違う出会いの中で向けられた笑顔だったら、ありがたく受け取るだろう。
でも今の僕にはそれが、悪魔の微笑みにしか見えなかった。
「小佐内さんとは互恵関係にしかない。恋愛関係でも依存関係でもない。お互いがお互いを利用しあって小市民にならなくちゃいけなかった。だから周囲の認識的に“別れた”筈なんだけど元の関係に戻らなくちゃいけなかった。違う?」
小鳥遊さんはどこまで知ってるんだろう。そもそも、なぜわかったんだろう。
僕たちの“仮面”は確かなものだった筈なのに。
「『なんでわかったんだ』って顔、してるね」
心を読まれたと思った。だけど小鳥遊さんはくすりと笑って「顔に出てるよ」と言う。……末恐ろしい。
「わかるよ。だって、私も“おんなじ”なんだもの」
“おんなじ”……その中にどれだけの意味が込められているのか、わかる気がするけど今はわかりたくなかった。
小市民を目指すようになって僕が気づいたのは、僕らのような傷を抱える人間には薄氷のような危うさがあること。そういう人間の心に足を踏み入れようとすると、あっと言う間に地盤が崩れ、どんな怪物が棲んでいるかわからない暗い水の底へ呑み込まれるような恐怖を感じるのだ。
小佐内さんほどではないにしろ、彼女も、小鳥遊さんも同じ闇を抱えているというのか。
棲むべき世界が違うとまではいかないが、いかんせん自分たちだけの思考に沈んでしまうと、周りとの乖離感は否めない。それをお互いに諫めるためにこうして小佐内さんといるのに、なぜこんなことになっているんだろう。
「小賢しくて解きたがりで、だけど笑って誤魔化す狐さんと、執念深くて復讐が好きで、だけど隠れてやり過ごす狼さん。でもね、君たちは致命的なミスをしてるの」
致命的なミス。その言葉が大嫌いだったのは昔の話だ。今は、笑って受け入れられる、はず。
しかし笑っていると思っていたのは僕だけだったらしい。「顔、引き攣ってるよ」と指摘された。渋面になった僕に、尚更小鳥遊さんは笑みを深めた。
「なんで二人だけだと思ってるの?二人もいたんだから、他にもそういう人間がいるって、思わなかったの?」
子供のように無垢な双眸に謎を浮かばせ、小鳥遊さんは恐ろしいほど無邪気に問うた。……答えられるわけがない。
初めから答えられないと見切りをつけていたんだろう、たった数秒の沈黙にすらも耐えられないように彼女は口を開く。
「私はね、鷹なの。自分はノーマライズなんだって周りに思い込ませる為に、自らの爪を隠す鷹」
軽く目を伏せてそうつぶや小鳥遊さん。僕に向けて話している筈なのに目はこちらを向いておらず、それはまるで自分に言い聞かせているような口ぶりだった。彼女が言うところの「爪」がなんなのかはわからないけど、表情から察するにそれなりの苦を背負ってきたんだろう。
脳ある鷹は爪を隠す、という諺を考えたのは誰だったんだろう。それが誰でも僕には関係ないけど、とりあえず今は彼女からすぐにでも逃げたかった。
僕たちだけだと思っていた小市民志願者。目指す理想の姿を胸に、笑顔を武器に、思うような生活を送れるはずと思っていた合格発表の日。
結局この高校生活を恙無く送れたかと問われれば僕は口ごもる他ないだろう。自ら謎や事件に飛び込むこともないわけじゃなかったから。それでも、現状に満足はしていた。今の僕らは間違いなくプチ・ブルそのものだと思い込もうとしていた。
そんな僕らの前に突如として現れた、僕らと同じく小市民たれを目指す彼女。
「ね、仲良くしようよ小鳩くん。私たちきっと、いい友達になれる気がするんだ」
自分は今まさに薄氷の真上にいて、下手に動いたら表面に亀裂が走り、水の底の化け物に喰われてしまう。
未曾有の危機を前に、僕の喉は緊張に上下した。