雨、降り出したみたい。
タバコを吸いに外へ出ていた誰かの言葉が、波紋のように広がってこちらにまで届いた。雨がどのくらい強いか見てこようかな、そう小さく呟いてから席を立つ。すると隣に座っていた友達は不思議そうな顔をしたけれど、わたしをわざわざ止めるようなことはしなかった。もちろん雨脚が気になるのは事実で、けれど他に理由を訊かれてしまうと、きっと、きちんと相手を納得させられるような回答はできないだろう。通路を通り抜けてから、入り口のドアを開けてびっくり。雨はすでに路面全体を濡らして地面を叩きつけるような強さで降り続いていた。天気予報、雨だって言ってたっけ。そんなことを考えながらぼんやりと立ち尽くしていたら、不意にタクシーが目の前で停まった。開いたドアから降りてきたのはかつての同級生で、向こうは驚いているわたしに気付いてほんの少しだけ目を瞠ると、口角を上げるようにして微笑んでくれる。
「え、うっわ。久しぶり」
「わ、覚えてくれてるんだ」
「え、俺のこと覚えてない?」
「吉田くんでしょ?」
「そういうとこ変わってねえな!」
安田が相変わらずでつい笑ってしまった。彼とは三年間同じクラスで、席替えで何度か隣の席になったこともある。
「だいぶ集まってるっぽいな」
「うん、中めちゃくちゃ賑やかだよ。仕事終わり?学校の先生やってるんでしょ、お疲れさま」
「おう。お前は?今来たわけじゃねえの?」
「え?うん。わたしは雨を見に出てきただけ」
わたしは出入り口のドアから少し離れて、屋根があるベンチに座ってもう一度雨空を見上げた。思ってたより降ってる、独り言みたいに呟いたら安田が返事をする代わりに隣に腰を下ろしたから、慌てて彼の顔を覗き込んだ。
「行かないの?」
安田は前を向いたままなんとなく返事を濁していて、あぁとか、うんとは言うものの立ち上がって中へ入ろうとはしない。
「――ねえ、相合い傘したよね、昔。ふたりで」
我ながら下手くそな話題提供だったと思う。不意に思い出したというよりは、今でも鮮明に思い出すことができる程度にはみずからの記憶に強く残っていたもの。わたしからそんなことを言うと、安田は驚きなのか笑いなのかよくわからない様子で咽るような勢いで噴き出した。雨は未だに弱まることを知らない。あの日も、こんな雨の強い日だった。
「あぁ、降水確率100パーなのにどっかの誰かさんが傘持ってなかった日な」
「そうそう。風も強くて結局ふたりともびしょ濡れになったよね」
うっわ懐かしいな、と目を細めて安田が笑う。ちょうどその頃、席が隣でよくプリントを見せてあげたり、ウトウトしてたら先生にバレないように腕を突かれたり突いたりしたっけ。
「わたしはあの頃が一番青春してたなあ」
「青春?」
「……本当はあの日ね、傘、持ってたんだよ」
「は?」
「もう時効、だよね?」
そう、わたしはあの日、ちゃんと傘を持っていた。家を出るときに、折りたたみ傘を通学用の鞄に入れたのをしっかりと覚えている。朝の天気予報を見て、降水確率が100%だと知っていたから。
放課後の帰り際、昇降口に安田がいるのを見つけて、咄嗟に「傘がない」と嘘を吐いたのだ。随分時間が経ってからの自白になってしまったのは本当に今更で、けれど告白をしたはいいものの、今になって言いようがない恐れを感じてしまい、安田の顔を見ることができない。
「は?うん」
「……え?」
「んだよ、俺が気付いてないと思ってたのか?」
え、え?予想外な返しに言葉がうまく出てこなくて思わず黙ったまま頷くと、安田はまた愉快そうな声を出して口元に拳を当て肩を震わせた。
「いや、ふつーに気付いてたし」
「……えっ、ほんとうに?待って、じゃあなんで」
「俺も多分、あの頃が一番青春してたよ」
どっかの誰かさんっぽく言うならな。そう落としてわたしから目線を逸らした安田の耳がほんのりと赤いことにはすぐに気が付いて、思わず頬が熱くなった。懐かしいね、そのたったひとことが言えないわたしは、きっと今、うまく笑えていない。
「……そっ、そろそろ中、入ろうか!みんな待ってるし!」
安田の顔を見ないままベンチから立ち上がって、中へ戻ろうと促す。もしもこれが静謐を保った空間の中だったらきっと、わたしの心臓の音が体内から外に漏れ出て聞こえてしまっていた。雨が降っていてよかったのかもしれない。
「……、あのさ」
「ん、なに?」
「……いや、やっぱいいや」
「え、なに、言ってよ」
言い淀む安田を詰めるように訊き返すと渋るように暫く唸って、それから僅かに眉を下げてゆっくりと息を吐いた。
「思い出って、思い出のままの方がいいんだろうし」
そう言うと、わたしより先にドアを開けてするりと音もなく中へ入って行く。
「……あぁうん、そう、だね」
なんだ、彼の中で、わたしは既に思い出だったのか。そんな当たり前のことにようやく気付いた途端、湿気が喉元に纏わりつくようで息が苦しくなる。
当時の席替え、彼が他の同級生に協力してもらっていたことなんてわたしは知る由もない。あの日、傘を差していて終ぞ触れられなかった彼の左手。その手で、その腕で今、優しく抱きしめられる女性はいったいどんな人なのか。存在するのかもわからない相手のことを考えてみただけで心臓が握り潰されたかのように痛む。どうしようもなくつらくて、いっそうのこと消えてしまいたくなった。
雨は、きっとまだ止まない。