※現パロ

ダージリンの憂鬱



 彼女とは秋口に出会った。
 年齢もさして俺と離れていないから、膝よりも長いスカート丈や、真っ黒のタイツにさして疑問は抱かなかった。それなりに細く、けれど細すぎてもいないはずの脚は黒に包まれるとそれだけでやけに折れてしまいそうに見える。スタイルが悪いというわけではなくても、黒のタイツとミモレ丈の長いスカートは彼女の身体や雰囲気を些か野暮ったく見せているような気がして、あるとき一度だけ「暑くねえの?」と尋ねた時も、彼女はゆるゆると首を振って、唇の端をほんの少し上げるだけのかたちで「いえ」と答えた。それは、やわらかな拒絶だった。続く言葉も続ける言葉もなくその会話は終わり、滑らかな流線形をした彼女のふくらはぎのラインが遠ざかっていくのを俺は茫然と見つめていた。
 脚フェチのつもりはなかったというのに、やけに彼女のふくらはぎの形について考えてしまうことが増えた。それと同時に彼女へ出かける誘いをかけてみるものの、何度打っても理想通りに響くことはなく、痺れを切らして別の友人に彼氏がいるのかを訊いてしまう程で。「意外。の事狙ってるんだ」という疑念ではない純粋な疑問を孕んだ真っ直ぐな友人の発言に俺は、なんだか違うような気がしながらも「あぁ、うん、まあ」と煮え切らない言葉を返した。
 狙う、というのは多分好き、ということで、けれど、俺はただ、なんとなく気になるだけなのだ。俺の顔を見ない彼女のつんとした鼻の形だとか、夏にひとり腕まくりをしてはいるもののカーディガンと足首までのガウチョパンツ姿で海へ行った彼女の姿だとか、だからといってそれなりによく食べるし、よく微笑むし、如才なく日々を過ごしているらしいことだとか、なのに、俺の誘いだけは絶対に断ることだとか。
 それでも、俺は彼女を気まぐれに誘い、彼女が代替案として別の友人と三人での食事を提案したとき、少しだけ良いような嫌なような予感がした。彼女の挙げた友人は、俺がついこの前に直接訊けないからと彼氏の有無を確認した共通の友人と同じ名前で。ラビさんも仲良かったですよね、と言う活字を何度も何度も眺め尽くした俺が何も答えることが出来ない間に、やけに全てがテンポよく決まっていき、当日、店には当然の如くちゃんだけがまるで葬式に参列した遺族のような顔をして座っていた。

「……仕事だそうです」
「あー、そうなん」
「急に言われて、すみません、わたしとふたりで」
「なんで?俺ずっと誘ってたろ。むしろ嫌われてると思ってたさあ」

 彼女が小さく首を振った、今日は少し緩いタートルネックに膝が隠れるミディ丈のスカートと、相変わらずお馴染みな黒のタイツ。肌色が見えるのはタートルネックの間と、袖を捲る癖のせいか、いやに白く見える両腕の肘から指先まで。手首には女性がするにはいささかがっちりとしたデザインの腕時計が巻かれており、右手の薬指には針金のように細い金色の指輪。耳たぶにもイヤリングなのかピアスなのか、パッと見では判別出来ないものの金色の小さなアクセサリがついている。余計に悪目立ちする首筋の青白さをなるべく視線に入れないようにしながら、これからどうしようか、と考えた。

「飯、食った?」
「まだです」
「えー……、酒は」
「今日は、だいじょぶです」
「そ、か。……ずっと思ってたんだけど、なんで敬語?」
「……」
「俺、話し辛い?」

 今日は質問ばかり、いや、いつも彼女の前に来ると俺はどうでもいいような質問ばかりしてしまう。こういうときほど自分の知りたがりな質を憎らしく思うことはない。俺にとってはどうでもいい質問ではないけれど、多分他人からしたらわざわざ訊くようなことでもないことばかり訊いてしまうのだ。例えば春夏秋冬長袖が多いことだとか、その割に袖を捲ることだとか、ピアスが空いているのかだとか、お酒は何が好きなのか、とか。全て割とどうでもいいし、俺がいちいち尋ねられたら、みっつめくらいで辟易するであろう。分かっていながらも懲りずに俺は彼女に問いかけてしまうのだから、自分でも処置無しである。
 だからこそ、俺を見ることなく店の中で携帯も見ずテーブルの木目に視線を落とした彼女の表情はお通夜のようだったのだろう。メニューをぱらぱらと捲り、「なんでもいいです」と俺になのか、テーブルになのか呟いた彼女の声を聞いた後で俺は店員を呼ぶ。二人分のありふれた食事とノンアルコールドリンクを頼んで、メニューを立てかけると、ふう、と二人分の呼吸がよく響いた。

「一回敬語使うと、抜けないので」
「それだけ?」
「あ、はい」
「したら俺も敬語使ってねえし、普通に話して欲しいさ」
「わかった、尽力します」
「ラビさん、っていうのも絶対抜けねぇなあこれ」

 頷いたにも関わらず一瞬でですます口調に戻った彼女に俺がちょっとだけ笑うと、彼女もやっと、ちょっとだけ笑った。つんとした形の鼻が、上げるだけの口角が、そうではなく機能しているのを初めて見た。きちんと上がった睫毛や、丁寧に塗られた口紅のことよりもずっと気になっていた固い空気のようなものの綻びがやっと感じられる。多分ここが話し時のような気がする、それなりの対人関係の中で培われた感覚がぼんやりと俺の中でそう騒いでいた。

「俺の事、苦手なん?」
「え?……えーと」
「嘘、下手ってよく言われるだろ」
「……そういうとこ、が、苦手で、」
「うん」
「ふたりだと、なんか、逃げ場ないし」
「なんか嫌われることした、って程話してねえのにな」

 俺がする意地の悪い言葉は、自分でも驚くほどするすると喉から出ていき、どうしてか嫌味のない純粋な楽しみの声として響いている。お互いに徐々に運ばれている料理と飲み物に手をつけることもなく、彼女は酷く不器用に俺の視線をかわしながら言葉を探していた。ゆっくりと断片的に作られる彼女の言語を待つ時間は、どうしてか苦痛ではなく、寧ろ待ち遠しささえ感じる。
 氷が幾つも浮かんだお茶の中身をじっと見つめながら、「暑くない、って訊かれたので」と彼女はやっと、そう答えた。
 多分、あれが初めてだったのだ。そして、あれから俺は彼女のことを目で追っていたし、彼女はその視線から逃げるようになっていて。とりとめのない質問の筈だったけれど、今も本当はその質問がとりとめのない質問ではないことは自分でもよく分かっていた。他人にとってはどうでもよくても、本人には気になるような、そういう大切な何かに俺は多分、土足で踏み入っている。その感覚が、残酷だと思いながらも俺は忘れられず、未だに残酷なまま、その答えを探しているのだ。だからこそ答えを知ってしまったあと、俺は彼女をどう思うのかという疑問にだけは目を背けていた、本当に残酷にならないために。いや、ふらりふらりと近寄って、最後の決断もその場で決めるだけの今の自分の方が、ずっと残酷な筈だというのに。

「あー、言った、なあ」
「……全然どうでもいいし、割と友達、女の子とかは知ってるんですけど」
「うん」
「誤解されるんですけど、長袖じゃないと落ち着かないんです、洋服」
「……へえ」
「ほら、なんか、がっかりしてる」
「や、してねえって、なんか、安心した」
「安心?」
「なんとなく訊いただけだったけど、嫌な思いさせちまったんかなって、気になってたから」

 半分正解、半分外れ、と思いながら、俺は自然な微笑みを浮かべてそう答えていた。彼女が袖を何度も捲りながら、少し大きい腕時計の盤面が細い手首の上でずれるのをそっと直すのを視線の端に収める。それからまた少しの沈黙があった後、彼女が「だからご飯誘ってくれてたんですか」と小さく呟いた。「それもあるなぁ」と俺は何も考えずに答えた後で、それも、とは何だろう、とまた考える。他に何があったのだろう、他に何を考えて、いや、残酷な疑問が解決したあとで、俺は未だに何を考えているのだろう。汗をかいたグラスに触れることもしないまま、彼女が唇を舐めて、息を吸った。先程と同じ「全然どうでもいいんですけど」と言う前置きをした彼女の声が先程より低い温度で響く。

「まぁまぁ大人になってから、怪我で、脚に痣が出来て」
「……うん?」
「握りこぶしくらいですかね、それで彼氏にも振られたりして、なんか、萎えるって言われて」
「治んねえの」
「そう、ですね、なんか、ダメな人は結構うわって顔するんで」
「だからスカート長いんか」
「やっぱり。ラビさん、わたしの脚見てましたよね」
「……や、待って、それは見てたけど、いや、誤解、です」
「……え?」

 長すぎる沈黙の中で、彼女は頭の中できっとすべての会話を反芻しており、徐々に瞳が転がるような程目が丸くなる。俺も同じように反芻して、ひたすらに後悔と反省だけをその時間で繰り返した。結局、不躾な質問だったわけで、いや、残酷な質問でもあったのか。しかも、フォローはどうにもこうにもフォローになっておらず、彼女がぱちぱちと瞬きをした。羽のように繊細な睫毛が上下に動いて、俺は小さく息を吸う。これ以上言葉を重ねても墓穴を掘るだけだろう、というか、これ以上の墓穴がこの世に存在するのか。

「ラビさんって、結構変なんですか」
「……ちゃんも大概失礼さあ」
「確かに」
「っていうか変じゃねえよ。ちゃん、脚綺麗だから」
「脚で女の人選ぶ感じですか」
「いや待てって!俺脚フェチじゃねえし、ちゃんのはなんか、気になって。……俺今なんつった?」
「……もう知らないです」

 掠れた声でそう言った後、顔を一度真下まで伏せた彼女がおしぼりで拭いた手で大きく顔を覆った。少しの間その状態を維持したあと、ゆっくりと顔を上げると眉が少しだけ下がって、さっきよりずっと可愛らしい顔が俺の目の前に現れる。なんとなく違う人みたいな感じでそれもまたいいな、とぼんやり思ってから、俺は口を噤むという行為を思い出す。今更もう遅いけれど。
 おしぼりでぐるり、と汗をかいたグラスを拭った彼女が「乾杯します?」と俺に向けてグラスを差し出した。「ノンアルだけどな」「確かに」「かんぱい」
 カチン、と控えめに響くグラスの音を聞きながら、俺は自分が思っているより、あまり残酷ではないのかもしれない、とこれから幾度となく思い返すであろう夜の初めに思った。