聖者の行進



「天蓋さんはさ、うちに来る前は仏に仕えてたんだよね。神様仏様はいるって、今でも信じてる?」

 或る日、にそう訊ねられた。すっと何気なく隣に立った彼女の視線は私ではなく、活瓶に絡み喧嘩を強請っている乱波の方を向いている。声色で好奇心故の質問ではないことがわかってしまったから、大凡私の半分も生きていないであろう齢の女性が訊くような内容ではないだろう、と思ったが、なにかにつけと行動することの多い窃野の話に拠れば、見た目の稚気さで彼女の内を判断すると痛い目に遭う、とのことだった。要するに本性は狸か狐か狼だ、という話である。そうとなれば、ここではぐらかすのが得策ではないことは容易に想像がついてしまう。

「……そうだな。今の私に神や仏がいるとすれば、それは紛れもなくオーバーホール様だろう」

 そう舌に乗せると途端、の眉間にぎゅうと深い皺が刻まれた。到底理解出来そうもない、といった面持ちの彼女は、組に属しこそすれ、あまりオーバーホール様のことを良く思ってはいないようだった。以前にクロノスタシスから「彼女は組長派なんで、変なこと吹き込まれるかもしれやせんけど、まあ、普通に接してれば害はないと思いやす」と言われていたことを思い出す。彼の言う「普通」の勺度は些か把捉の難しいものではあるが、要するに下手に突っ撥ねるようなことさえしなければいいということであろう、と勝手に解釈させてもらった。

「天蓋さん、乱波くんのお目付け役で組に入ったんだよね?」
「そうだな」
「今まで慎ましく生きてきて、贅沢で豪奢な生活じゃあなかったにしたって、狂った人生ってわけでもなかったろうに。治崎は個性の有用性だけ見て引き入れたんだよ、自分のことしか考えてないようなやつが神になんか成り得るわけがない」

 個性が発現して間もない頃に実の両親に捨てられたのだというは、どちらかといえば窃野や宝生、多部らと境遇が似ている。純粋に強者を求めて引き入れられた喧嘩狂いの乱波と、その目付役として組に入ることとなった私。どちらも彼女にとっては得てして理解し難いものであるのだろう。人間は、往々にして自分と違う境遇や価値観を持つ者を容易に受け入れることなどできないようにできているからだ。

「それを判断するのは、個々人の尺度だろう」
「『たしかに神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。』」
「……なるほど、17章か」

 極めて不服そうで不満そうな表情のままが紡いだのは使徒言行録の一部。新約聖書の中で、伝統的に四つの福音書の後に措かれるものだ。学はない、と平素から零している割りに、彼女はこういった側面の知識に富んでいる。聞けば無神論者であるとのことだったが、それならば何故自ら地雷原に足を踏み入れるような真似をしているというのだろうか。言動の愚直さに相反して霧か霞かのように掴めない人格は、時として不可解な気持ち悪さを覚えてしまう。

「『神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じもの、と考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔改めを命じておられます。』」
「……私は偶像崇拝者である、と?」
「違うとは言わせないけど?」

 細められた彼女の鈍色の瞳から、射抜くような視線がちくちくと刺さるのが気配だけでわかった。偶像崇拝であることなど、そんなことは言わずともわかっている。違うなどとは、口が裂けても言えるべくはなかった。

 日本人はよく「宗教心の豊かな国民」だと言われる。日本国内を巡れば、どこの山へ行っても神社があり、どの町へ行っても寺があり、キリスト教会も殆どの市と町に、最低でも一つはあるという。日本は津々浦々に偶像の満ちた国だ。多くの人が元旦の初詣のために大晦日の夜から神社仏閣に押しかけて、他の日に於いても、合格祈願や安全祈願、安産祈願、水子供養等の為に、神社仏閣は年中忙しくしている。こうした日本の現状を見て、或る人々は言うだろう。「聖書では、偶像崇拝は恐ろしい罪の一つと言われている。日本人は未だに、そうした大きな罪の中にいるのだ」。私も、そうした考えを否定するものではない。偶像崇拝は聖書に拠れば大きな罪であって、日本人がそうした罪の中にあることを悲しく思わないと言えば真っ赤な嘘になってしまうが、私はそうした偶像崇拝の中にある人々に対し「それは罪なのだ」と断罪したり責めたりする気は毛頭ない。所詮は同じ穴の狢であるからだ。

!喧嘩するぞ!」
「なんで、しないよ。僕が死ぬじゃん」
「活瓶がギブアップした!闘おう!」
「人の話聞きなよ、しないって言ってんじゃん」

 厄介者に絡まれた、とでも言いたげに至極面倒臭そうな表情でやいのやいのとやや噛み合っていない口論を始めたと乱波を傍目に、ふと考える。
 キリストの使徒パウロは、かつてギリシャのアテネで人々を前に説教した。ギリシャ人は、幾つか日本人と似通ったところがある。ギリシャの宗教は日本の神道と同様、多神教だからだ。オリンポスの神々は日本神道の神々と同じように、戦ったり、結婚したり、嫉妬したり、生んだり、死んだりする。また、当時ギリシャのアテネには様々の偶像が置かれていた。使徒パウロは、そうしたアテネの状況を見たとき人々に何と言っただろうか。人々の偶像崇拝を断罪して、「偶像崇拝は恐ろしい罪なのだ。悔い改めなさい」という言い方をしただろうか。
 そうではない。パウロは、もっと違った言い方をしていた筈だ。「あなたがたは、(本当の神がどのようなかたかを)知らずに拝んでいる」「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが……」パウロは、人々の偶像崇拝は「無知」の故であると考えた。人々の宗教心が正しい知識に裏付けられておらず、まだ初歩的だからだ、と考えたのだ。そのうえでパウロは「神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。――神を、人間の技術や工夫で造った、金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません」と、真の神について語ったのだ。

 今日、偶像を拝まないまでも、"知られない神"を拝んでいる宗教が数多くある。最近のある新興宗教は一応"神"を説いてこそいるが、その神がどうもはっきりしない。高次元の世界に住んでいるとは言うけれども、一体どんな神であるのかはっきり説かない為にわからないのだ。恐らくそれを説いている教祖自身も、その神についてよく知りはしないのだろう。
 使徒パウロの時代にも、そうした"知られない神"を拝んでいる人々がいたという。パウロはアテネで「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私は道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを、見つけました」と語っている。この祭壇には、恐らく偶像は設置されていなかった。アテネの人々の中には、偶像でこそないけれども名も知らぬ神を拝んでいる人々が確かにいたのだ。
 実際、ギリシャの大哲学者プラトンやアリストテレスの信じていた"神"は、そうした"知られない神"であったらしい。彼らは哲学を通じ"知られない神"について考え、想像し、黙想したのだ。
また昔、平安時代の歌僧・西行が「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」とうたった歌も、そうした"知られない神"からの恩寵に感謝したもの、と言うことができる。
 一方、あの天才的な軍人ナポレオンは「神秘を笑う者は愚かである」と言った。彼は神の教えに従って生きた人ではないが、少なくとも世界の神秘的な事象の奥に"知られない神"が存在するとの思いは持っていたということになる。
 あの大物理学者アインシュタインは「宗教なき科学は足なえであり、科学なき宗教は盲目である」と言い、屡々"神"について語っていたそうだ。しかし彼のいう"神"は、まだ漠然とした神であり"宇宙の背後に居られる大いなる方"といった理解に留まっていたのだ。

「ちょっと天蓋さん、保護者なら保護者らしくちゃんと乱波くんのこと見張っててよね」
「保護者ではなく目付役だ」
「今の状況ならどっちでも変わんないってば」

 未だ追い回す乱波から逃げ回っていたのか、ぜいぜいと息を切らし膝に手を置いて浅い呼吸を繰り返しているはじろりと恨めしげに私を睨めつける。けれども一向に着物の袖から手を出さない私の姿勢で求めていた応援は望み薄であると察したのか、一転顔を不機嫌に歪めたは乱波の拳がその身体に叩きつけられる前に身を翻し、扉を勢い良く開け放ちばたばたと廊下を走り抜けていった。普段は気配を殆どさせず足音も響かせるようなことがないだけに、相当虫の居所が悪いようだ。あの様子だと軈てクロノスタシスか入中に喧しいと叱咤されるに違いない。そうなるときっと彼女は、乱波を正しく(日常生活での所謂"じゃれあい"に於いて、乱波を諫めることが必ずしも正しいとは言い切れないが)制御しようとしなかった私の名前を挙げることだろう。図らずも説教に巻き込まれるであろうことを悟り、思わず口の端から重々しいため息が漏れた。

 昔、創始された頃の仏教は無神論・無霊魂の教えであった。しかしその後、大乗仏教が現われると仏教はしだいに変質し、やがて"神"とは呼ばないまでも"永遠の仏"と呼ばれる様々な神的存在者を説くようになった。今日も人々の中には、偶像は拝まないけれどもある種の"神"を信じている人々がいる。"知られない神"を信じているのだ。そうした人々は、その"神"が目に見えない偉大な方であることは知っているものの、その神の名前やどんなことを成した方かなどはよく知らない。
 人間は真摯に考えるのであれば、宇宙万物の背後に偉大な"神"が居ることを次第に知るようになる。宇宙の背後に居られる"知られない神"を拝する信仰は、聖書の理解によって天地の創造主への信仰に導かれる。そうした神の存在の認識は、偶像崇拝よりは一歩進んだ信仰と言えるのかもしれないけれども、やはりまだ、初歩的な信仰と言わなければならない。

「知は罪だけど、馬鹿は罪じゃないよ。馬鹿は罪じゃなくて、罰だから」

 いつだったかが舌に乗せたその言葉は、本質を深く知りもせずオーバーホール様を慕う私の崇拝意識を浅慮と揶揄するために言い放ったものなのか、或いは、崇め奉る神などいやしないと思い切っている自分自身の狷介に向かって吐き出したものであるのか。今でもそれを計りかねている。