ワーゲンバスが舗装されていない道を走る揺れは、きっと赤ん坊の揺り籠が揺れるときのそれに似ているのだろう。
窃野は燦々と降り注ぎはじめた朝日に、そっと目を細める。体験したことのない事柄について想いを馳せ、まどろみの端、左側でハンドルを握る手を見つめた。武骨だけれども傷一つない手。女性のようだ、母親のようだと思ったけれど、当の本人に女性らしいところなどなにひとつもないと思い直して一人ひそかに鼻を鳴らした。「何笑ってるんだ」右にハンドルを切った宝生が言う。「べつに」腕を組み直すと、宝生が大げさにため息をついた。
「あの赤ん坊の件から、もう喧嘩しなくなったと思ったのにな」
「うるせえな」
「少しも成長してないな、お前」
言い返すことができない。窃野は煙草を噛む。取り出した矢先に禁煙だと咎められて、またまた募る苛立ちに舌打ちをした。すると宝生は笑って、
「ガキみたいなのやめろ」
なんて言うものだから、宝生はさらに腹を立てる。
「ガキじゃねえし」
「いくつだと思ってるんだ」
宝生が左にハンドルを切り、アクセルをすこし強く踏んだ。見なれた猥雑な街並み。ここからは一本道。久々に堅く冷たいコンクリートに転がって眠った身体が痛む。窃野は首を鳴らした。
なにか満たされないものを満たすため、夜な夜な暗がりへ進み出て、必死に拳を振るっている。その満たされないものが何であるのか理解できるほど、窃野の思考回路は熟していない。満たされないもの。それはきっと宝生の父親のような優しさでもなく、かといって入中やの、母親のような面倒見の良さでも情でもない。その感謝を表に出すことはできずとも、自分が大きな愛情を受けていることなどとうの昔に気づいていた。けれどもあの赤ん坊と触れあった数週間のなかで、小さな身体を抱えたあのとき、窃野の何かは確実に満たされていたのだ。
「あ」
気づいたことがあった。それによって、窃野はいくらか前に進むはずだ。
「なんだ忘れものか、もう着くが」
「違くて」
宝生が怪訝そうに眉をひそめる。
「宝生俺さ、ぬくもりって大事だと思うんだよ」
「ああ」
「みんなで寝ようぜ」
窃野は冗談めかして笑った。こんな風に、甘えるのはいつぶりだかわからない。宝生は一瞬呆けた顔をして、しかしその次には心底愉快だというように声をあげて笑った。川の字どころの話じゃないな。クラブの前にワーゲンバスが止まる。降りるよう促された窃野はドアを閉める間際に「約束だぞ」と念を押して、宝生はなおざりにけれどあたたかく、「ああ」と頷いた。