しみったれカミサマ



 恋、をすること。面倒くさいとすかして鼻で笑ってみせてはいるけれどやめられなかったこと。何回も失敗を繰り返してまた忘れて、周りを見回したらみんな同じ。失敗を繰り返すことで自分が案外脆いことも、強いことも知れる。誰だって弱者だ。恋をすることで相手を通して自分を見つめている。何度も何度も見つめてきたその顔。そのことに漸く気付いた頃にはもう既に、後戻りなどできないところまで来てしまっていたのだった。

「トウヤくんはなんでうちに来たわけ?」

 俺が組に入ってから然程経っていないときの話だ。いつも大抵補佐の後ろにくっついて回っているものの構ってもらえなかったのか余程暇であったのか世間話でもするような軽さでそんなことを訊いてきたの口吻に俺はすっかり呆れてしまう。人には誰しも言いたくないことや言いづらいことの一つや二つあって然るべきものだけれども、この奇妙な雰囲気を纏うガキはそんなことにかかずらうような質ではないようだった。

「……若頭からなんも聞いてねぇの」
「しずかちゃん?あいつ僕のこと嫌いなんだよ。まあ僕も好きになれないし、要するにウマが合わないってやつ」

 先程まで手にしてぺらぺらとページを捲っていた本への興味はとうに削がれてしまったのか、今度は指のささくれを弄りながらどうでもよさげに話すの声色は今日は雨が降るらしいよと話す日常会話のそれと変わらない。他でもない自分自身のことだというのに、どうやら人に嫌われるという事柄に関してさえも無関心であるらしかった。こんな年若い奴が指定敵団体に在籍していると知ったときには相当に驚いたものだけれども、さすがヤクザにいるだけの肝は据わっていると言うべきなのだろうか、少なくとも現段階で組の実権を握っているであろう若頭のことを好きになれない、とは相当に怖いもの知らずのようだ。心臓の裏側をちくりちくりと刺すちいさな針のような違和感が広がっていく。

「僕はさ、個性が発現してからすぐに親に棄てられてね、組長が拾ってくれなかったらどっかの裏路地で野良犬みたいに野垂れ死んでたかもしれないなあって思うと面白いよね。まあ自分たちに脅威かもしれない子どもが気持ち悪いって思うのはすごい人間らしい思考だから逆に正常なのかもしれないけど」

 どこが面白いんだどこが。
 親に棄てられた、だなんてデリケートにも程がある内容を躊躇うこともなく口にするは自分を産んだ親のことさえ無関心の対象であるかのように話し出す。これがヤクザの洗礼なのだろうか、こういうのは普通仕事中に感じるべきことであろうけれども、改めてとんでもないところに来てしまったかもしれない、と思った。

「親のこと、恨んだりはしねえわけ」
「『大衆が自ら行動しようと試みることは、自らの運命に逆らうことであり、彼らが今日行なっていることはまさにこのことに他ならないので、わたしは大衆の反逆をここで問題としているのである。なぜならば、つまるところ、真に反逆と呼びうるものは、人間が自己の運命を拒否すること、自己自身に対して反逆すること以外にはないからである』」
「……オルテガかよ」
「僕は自分の目で見たものしか信じたくないから運命だとか神様だとかを信じているわけじゃないけどね、あの人たちが所詮は運命の輪に踊らされていた人形だったってだけの話さ」

 どうせ僕の個性の大元を持ってるあの人たちがまともな職に就いているわけがないんだから離れられて清々するね、と軽く鼻で笑いさえしている。
 この口吻だと個性が発現するまではそれなりにまともな教育を受けていたのだろうとは思うのだけれども、それももしかしたら極めて必要最低限のものであって本来親というものから享受して然るべきだった寵愛だとか珍玩だとかの一切のものものを受けずに生きてきたのかもしれない。そうとなればこの擦れた考え方にも納得がいく。要するにこいつは愛というものの概念すら知らないのだ。

「……お前、愛とか知らねえだろ」
「なにそれ、説法のつもり?トウヤくんだって僕と似たようなもんでしょ?ええっと、なんだっけ、彼女に借金負わされて棄てられた?」
「知ってんじゃねえかよ」
「知ってるっていうかさ、だってそういう顔してんだもん。愛だの恋だの面倒くさいって、もう生きていたくなかったって顔」

 ぞっとした。
 俺が恋人だった女に騙されて捨てられたことも、その原因が多額の借金であることも、ましてや自殺を謀ったともそれが未遂に終わったことも、俺はなにひとつとして若頭には話していない。いや少なくとも自殺未遂のことくらいは知っているかもしれないけれども若頭がそんなことをこいつに話しているとは考えにくいし知っているはずもない。だから今こいつが話したことは紛れもなくこいつの勘と推測に依るもので、それでもここまで的確に言い当てられるものかと。ざわり、と背筋が粟立った。

「……女には懲りた」
「ふうん」

 だからもう色恋になんて関わりたくない。そう吐き出した俺の言葉にへえそうなのと曖昧に頷いたの顔にはよくわからないと書いてある。愛だの恋だのといったものものはこいつの興味関心の範疇にないらしい。こいつが自分の興味のない事柄には熟無関心を貫くことなんて今となっては充分に承知しているけれども、それにしても自分から訊いてきたくせになんて奴だ。人の心のやわらかなところに土足で踏み入っておいてつまらなそうにしているこいつに倫理観だとか罪悪感だとかいうものはないのだろうか。

「愛だの恋だのそんなものはね、だらだら流れていく日常に少し色を添える程度の附属品でしかないと思うよ、僕は」

 愛なんて知らないけど、なんて。もしも慰めているつもりならば下手くそにも程があるけれどもこいつに誰かを慰めるだなんて気概があるようには到底思えない。

「こういう話は落ち着かない?」
「……そりゃ、まあ」
「トウヤくんのそういう普通なところ、すごくいいと思うよ。僕も君も、ごく普通で本質的にありきたりな人間だ」

 はい、と先程までが手にしていた文庫本を手渡される。相変わらず読めない不可解な行動に眉根を寄せながら受け取るとそれはシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』であった。自身の境遇に重ねているのか俺の境遇に対しての皮肉であるのかはわからないけれども、サドでなかっただけマシとでも言うべきか、それにしてもシェイクスピアとはまた趣味が悪い。思わず顔を顰める。

「辱めを受けた命から解放されて、ラヴィニアは幸せだったと思う?」
「『娘がはずかしめを受けたあとも生きながらえ、その姿をさらして、悲しみを日々新たにさせてはなるまい』……だったか?」
「美しい華もいずれは枯れて散る。それが命あるもの全ての宿命だ。ならいっそ、咲き誇る姿のままに時を止めてしまいたいと思うのは無理もない話だね」

 へらりと笑って肩を竦めてみせるの白々しさに、また妙な違和感が心臓の裏側を刺す。
 劣等感なんてくだらない、優越感でも全然あがれない、だったらそんな差別は無意味極まる。にとって大事なのは自分が興味があるか否かであり、思想だの個性だのの差異で好き嫌いすることなぞ馬鹿らしいのではないだろうか。敵もヒーローも男も女も子供も老人もの前では押し並べて普通に平等であるのではないだろうか。

「ねえ、UFOって見たことある?」

 そんな俺の思考など気にもせず、床を蹴ってくるくると回る椅子に腰掛けながら「シマウマって見たことある?」とでも聞いているかのような口調でこいつは唐突におかしなことを訊く。俺がこの部屋にやってきて以来ずっと点けっぱなしになっているテレビには右へ左へ自由自在に飛行する物体の映像が映し出されていて、UFOの存在がどうのこうのとナレーションがまことしやかに絵空事を語っている。宇宙人だとかネッシーだとか、不確かな存在に恋焦がれる傾向など微塵も感じさせそうにないこいつはいかにもそれらしいナレーションを右から左に聞き流しながら俺の回答を待っている。あるわけねえだろ、と答えれば端から期待などしていなかったのか、ふうん、とはぞんざいな返事を寄越した。

「僕も見たことない」
「だろうな」
「でもね、見たいって思ってるし、トウヤくんにも見せたいって思ってるよ」
「……そーかよ」
「うん」

 スカイフィッシュだとかチュパカブラだとか、誰も見たことのないものについてあれこれと思想を巡らす趣味はないけれども、例えばいま締め切ったカーテンを開け放った先にUFOが見えたならばどんなに素晴らしいことだろうか。テレビのなかでは名の知れた芸能人があれは飛行機だのなんだのと議論を交わしていて現代文明の限界を説諭されている気分になったけれども、何万光年の彼方から飛来する存在への憧れは拭えない。UFOを見つけてみせたいの思いがUFOそのものを呼びよせて、SF映画のワンシーンみたいに俺とを連れ去ってしまえばどんなに素晴らしいことだろうか。連れ去られてしまったのならばすべての物事を仕方が無いの一言で片付けて、ありとあらゆる迷いも後悔も不要物として扱うことができる。うまくいかないことばかりだなんてみずからの人生を嘆くこともなくなるだろう。疎ましい重力から解放されて、煩わしい問題はひとつ残らず宇宙の塵になってしまう。

「UFO、来ないかな」

 くるくると回る椅子の背に凭れて天井を仰いで呟くの視線を追いかけるように俺もちかちかと蛍光灯が星のように瞬く天井を見上げた。
 ここではないどこかへ向かう術をUFOに託したいと望んでいるのならば、本当は俺こそがこいつにとってのUFOになるべきなのだろうけれども。